入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (41)

2008-10-19 14:52:57 | 霊学って?
41.
指導原理の第40項[前項]は、「人間の意志」の本質に注意を促している。この本質に気づいたとき、私たちはその気づきをもって、初めて「運命」(カルマ)が働く宇宙領域のただなかに立つことになる。自然界の事物や事実の相互関連のなかに働く法則だけを見ているかぎり、運命のなかに働く法則に気づくには到らない。(訳・入間カイ)

1. Durch den dritten Leitsatz der vorigen Gruppe wird auf das Wesen des menschlichen Willens hingewiesen. Erst wenn man dieses Wesen gewahr geworden ist, steht man mit seinem Begreifen in einer Weltsphäre darinnen, in der das Schicksal (Karma) wirkt. Solange man nur die Gesetzmäßigkeit erblickt, die im Zusammenhange der Naturdinge und Naturtatsachen herrscht, bleibt man dem ganz fern, das im Schicksal gesetzmäßig wirkt. (Rudolf Steiner)


この41項で、
シュタイナーは、私たち一人ひとりの「意志」と
「運命」(カルマ)との関連に触れています。

ここで大切なこととして、
「カルマ」という言葉を、ただ単に
よくはわからないが、「運命の法則」があるのだろう、
というふうには受け取らないでいただきたいと思います。

哲学辞典などを引いてみると、
「カルマ」はサンスクリット語で
「行為」を意味するとあります。

つまり、シュタイナーは
カルマという言葉を使うことで
私たち一人ひとりの「行為」の意味を示唆しているわけです。

そして、私たちの「行為」は
まさに「意志」とかかわっています。

私たちの意志がはたらきかける領域、
そこにも「法則」が働いています。

そして、私たちの意志は
自然法則にはかかわれないけれども、
運命の法則にはかかわれる。

そこに前項で触れた
「本質」という言葉の意味が隠されていると思います。

つまり、
私たちの四肢・代謝系のなかには、
物質的な自然法則だけではなく、
運命の法則が働いていて、

私たちの意志は、
この運命の法則には働きかけることができる、ということです。

アントロポゾフィー指導原理 (40)

2008-10-18 14:40:16 | 霊学って?
40.
代謝と四肢の系のなかでは、さまざまな物質や過程を通して、ある本質が物質のなかに現われている。しかし、この本質に対するこれらの物質や過程の関係は、画家や、画家が用いる道具に対して完成された絵がもっている関係以上のものではない。したがって、この本質のなかへは、「意志」は直接的に介入できるのである。人間の身体は、自然法則のなかに生きているが、その背後に、霊性のなかに織りなす人間本性を把握することができる。そこでは、「意志」の働く領域が広がっているのである。感覚領域に対して、人間の意志は「内容のない言葉」にすぎない。したがって、この「感覚領域」のなかで「意志」を捉えようとすれば、「認識」への努力のなかで、「意志」の真の本質を離れ、そこに何かまったく別のものを据えてしまうことになる。(訳・入間カイ)

40. Im Stoffwechsel- und Gliedmaßmensystem offenbart sich ein Wesen zwar durch die Stoffe und die Vorgänge an den Stoffen, aber diese Stoffe und diese Vorgänge haben mit ihm nichts weiter zu tun als der Maler und seine Mittel mit dem fertigen Bilde. In dieses Wesen kann daher der Wille unmittelbar eingreifen. Erfaßt man hinter der in Naturgesetzen lebenden Menschenorganisaion die im Geistigen webende Menschenwesenheit, so hat man in dieser ein Gebiet, in dem man das Wirken des Willens gewahr weden kann. Gegenüber dem Sinnesgebiete bleibt der menschliche Wille ein Wort ohne allen Inhalt. Und wer ihn in diesem Gebiete erfassen will, der verläßtim Erkennen das wahre Wesen des Willens und setzt etwas anderes an dessen Stelle. (Rudolf Steiner)



この40項は、ひとつの転換点のように見えます。
ここでシュタイナーは
すぐに人間の「意志」について語るのではなく、
「ある本質」について語っています。

その本質は、
身体のなかの、さまざまな物質や化学反応を通して、
つまり代謝や運動といった現象のなかに現われるけれど、
いわば画家が絵を描くように、
それらの物質的な作用を引き起こしている。

そして、人間の「意志」は、
この「本質」にはかかわることができる、というのです。

前項で、
意志は精神的なものである、と書きました。

そして、
精神的なものである意志が、
物質的作用のなかに働きかけるために
いわば「仲介者」のようにして存在している、この「本質」。

この「本質」はいったい何なのでしょうか?
この問いを踏まえて、
次に進みたいと思います。


アントロポゾフィー指導原理 (39)

2008-10-17 14:16:34 | 霊学って?
39.
人間の内から、「意志」の働きが現れる。意志は、外界の自然法則に対して、まったく異質なものとして向き合っている。感覚器官は、自然の事象と類似しており、この類似性のなかに感覚器官の本質が認められる。そのような感覚器官の活動のなかでは、意志の働きが展開されることはまだできない。人間のリズム系は、外界のすべての事象と、すでにかなり異なった本質をもっている。この系のなかには、意志の働きはすでにある程度まで介入することができる。しかし、この系の活動は「発生」と「消滅」のなかで展開される。したがって、リズム系のなかでは、意志はまだこの「発生」と「消滅」につながれていることになる。(訳・入間カイ)

39. Aus dem Menschen wirkt der Wille. Der steht den an der Außenwelt gewonnenen Naturgesetzen ganz fremd gegenüber. Das Wesen der Sinnesorgane ist noch an seiner Ähnlichkeit gegenüber den äußeren Naturgegenständen zu erkennen. In ihrer Tätigkeit kann sich der Wille noch nicht entfalten. Das Wesen, das sich im rhythmischen System des Menschen offenbart, ist allem Äußeren schon unähnlicher. In diesem System kann der Wille schon bis zu einem gewissen Grade eingreifen. Aber es ist dieses System im Entstehen und Vergehen begriffen. An diese ist der Wille noch gebunden. (Rudolf Steiner)



この39項では、
人間の「意志」と、
私たちが生きている「物質の世界」との関係が描かれています。

私たちの「意志」というのは、
かならずしも自分にも自覚されていないところがあります。
外からの何らかの刺激によって、
自分が実は何を欲していたのかに気づくこともあります。

ただ、すべての人間のなかには、
外の世界に対して、自分はどうかかわっていきたいのか、
何らかの「意志」や「意欲」があるということです。

私たちの「意志」は目にみえません。
意志は、霊的なもの、精神的なものであるといえます。

ですから、
この世界で何かを成し遂げたいという意志があっても、
それだけでは「物質」にかかわることができないわけです。
この世界で何かを成し遂げるためには、
精神である意志が、
物質である世界に触れるための道具が必要です。

そして、ある意味で、
私たち人間の身体は、
意志という精神を、物質につなぐための道具であるともいえるのです。

その意味では、
私たちの身体は、
精神が物質に転換される場でもあります。

私たちの身体を考察することで、
いかにして
精神という目にみえないものが、
物質という目にみえるものに転換されるのかを
知ることができます。

そのとき、
シュタイナーは、
まず眼や耳などの感覚器官は、
直接「意志」がかかわれる場所ではないと言っています。

眼は、外からの刺激をそのまま受け止めます。
錯覚など、実際には見えていないことが見えたように感じるのは、
脳の働きであって、
感覚器官そのものは、外からの刺激をそのまま受け止めます。
「自分はこういうものが見たい」という意志があっても、
その意志によって、見たり聞いたりするものが変わることはありえません。

それは、感覚器官は自然界の事物と共通したあり方をしているからだというのです。

ところが、呼吸器や血液循環になると、
身体は、心や精神の作用をかなり受けるようになります。
驚きや不安、緊張や、喜びや興奮で、
呼吸が浅くなったり、震動の鼓動が速まったり、
顔が赤らんだり、
手足が冷たくなったりするわけです。

そして、私たちが意志を強くもったり、
何かを目指して、熱をもって取り組んでいるとき、
その精神の集中は、呼吸をととのえたり、
血流を促して、全身を温めたりします。

そこでは、意志が呼吸器や循環器という「リズム系」のなかで
ある程度働いているといえるわけです。

しかし、呼吸においても、
心臓の鼓動においても、
そこには必ず息を吸っては吐き、
酸素と結びついては、また離れるという繰り返しがあります。

この繰り返しは、人間によって「意識」されることもありますが、
人間が自分が呼吸していることを忘れているときも、
呼吸は繰り返されています。

この繰り返しによって「生命」が維持されるので、
それは人間の「意志」には違いありません。
しかし、その意志は「それ以外のありようはできない」のです。

その意味で、
「リズム系」において、
意志は「つながれている」といえるのだろうと思います。


アントロポゾフィー指導原理 (38)

2008-10-16 13:49:55 | 霊学って?
38.
これまでの指導原理で示された方向で、人間をその形象性において考察し、そしてそれによって現われてくる霊性を考察するに到ったなら、その次の段階として、通常は一人ひとりの心のなかに現われる「道徳性」という法則を、霊界の中に、その真実の姿において、同時に見ることになるだろう。なぜなら、道徳的な世界秩序は、霊界に属する一つの秩序が地上に写し出されたものだからである。そして、物質性と道徳性の世界秩序はともに結びついて、一つの統一性をなしているのである。(訳・入間カイ)

38. Ist man dazu gelangt, in der durch die vorigen Leitsätze angedeuteten Richtung den Menschen in seiner Bildnatur und in der dadurch sich offenbarenden Geistigkeit zu betrachten, so steht man davor, in der geistigen Welt, in der man den Menschen als Geistwesen walten schaut, auch die seelisch-moralischen Gesetze in ihrer Wirklichkeit mitzuschauen. Denn die moralische Weltordnung stellt sich dann als das irdische Abbild einer zur geistigen Welt gehörigen Ordnung dar. Und physische und moralische Weltordnung gliedern sich zur Einheit zusammen. (Rudolf Steiner)


この38項では、
シュタイナーは踏み込んで
「人体」と「道徳」の関連に触れています。

人体のなかには
イマジネーション、インスピレーション、イントゥイションが
現実に肉体を生み出し、形づくる力として働いており、
それが同時に、私たちの「認識の力」でもある、
ということを、これまでの指導原理は示してきました。

そして、そのような人体の考察の基本となるのが、
「人間をその形象性において考察する」という見方でした。

しかし、それはただ「人体を理解する」とか、
ただ「認識を獲得する」ためではなく、
私たちの肉体のなかに同時に働いている「道徳性」に触れるためだというのです。

道徳というと、
ふつうは人間の行動を規制するものとか、
「良心の声」のように、内面の心の声として、
あるいは「神様が見ている」というようなイメージとして
自分で自分を縛ったり、
管理したりするもののように受け取られるところがあります。

しかし、シュタイナーは、
道徳性というものは、
この宇宙そのものを支えている秩序の一つの側面であるというのです。
その秩序は、「霊界に属する」もの、
つまり、特定の個人や、特定の集団のなかで
勝手に、思いつきで取り決められたものではなく、
すべての人類、すべての存在に浸透している「普遍的」なものです。

それが、地上に、
つまり一人ひとりの心のなかに写しだされたものが、
私たちが心のなかで感じとる「道徳性」の感覚だというのです。

そして、それは一人ひとりが勝手に感じることではなく、
その基盤として、私たちの身体があるわけです。

この身体もまた、本来は「霊界に属するもの」、
つまり、すべての人類が共有するものです。
一人ひとりの体質の違いや、
身体的特徴の違いはあるにしても、
身体という「普遍的」な本質がそこにはあります。

その普遍的な本質に目を向けるために、
「人間をその形象性において考察する」ことが必要なのです。

すると、
身体性と道徳性は、
一つの同じ世界秩序の二つの側面であることが感じられるようになる。

そこに、
私たちの「認識」と「行為」が結びつく可能性が生じるのです。


人間の形象性について

2008-10-15 17:30:49 | 霊学って?

 以下は、シュタイナーが指導原理の37項と38項の間に挿入した、一つの解説文です。ご参考までに訳出します。



これまでの指導原理について

人間の「形象性」について

ルドルフ・シュタイナー



私たちの「外」には、大自然が広がっています。自然科学者はこの「自然」を研究して、さまざまな知見を得ています。けれども、自然研究にもとづく知見は、そのまま「人間の研究」に適用できるものではありません。このことを明らかにするのが、アントロポゾフィーの重要な課題のひとつです。

しかし、近代の数世紀の間に、人間の考え方は大きな変化を遂げました。いわば人間精神の「進化」とともに、一つの思考法が人々の心の中に入り込んだといえます。この思考法は、「自然研究の成果を、人間研究に応用する前に、いったん立ち止まれ」という要請に背くものでした。この近代の思考法とは、「自然法則」を思考で捉えることです。そして、「自然法則」を捉えていくことで、私たちが見たり聞いたり、触ったりできる―つまり感覚的に知覚できる―「自然現象」を解き明かしてきました。そしていま、私たちは「人間の生体」にも目を向けています。人間の生体のなかに働く「自然法則」を捉えれば、「人間の仕組み」も理解できると考えているのです。

 それはまるで、画家が描きだした絵画(形象Bild)を理解しようとして、絵の具の素材や、その絵の具がカンバスに付着する際の力、色彩がカンバスに塗りつけられる方法などを調べるようなものです。しかし、そんなことをしても、その絵画のなかに現われているものを捉えることはできません。絵画のなかに描きだされるもの、絵画を通して現れるもの。そこにもやはり「法則」が働いています。しかし、その法則は、上記のような「研究」によって捉えられる法則とは、まったく別のものなのです。

 同様に、人間本性のなかにも、何かが現われています。しかし、その何かは、外なる「自然研究」の思考法では捉えることができません。このことが非常に重要なのです。もしこのことが正しく理解できたならば、人間を「形象」(絵画Bild)として捉えることができるようになります。鉱物は、この意味では「形象」ではありません。鉱物の場合は、私たちが見たり触ったりできること、つまり直接、感覚で知覚できることが、そのまま鉱物の本性なのです。

 しかし、絵画(形象)を前にしたとき、私たちのまなざしは「感覚によって捉えられたもの」を突き抜けて、その「内容」に向かいます。この内容は、「精神」によってしか捉えることができません。人間を考察するときも、それと同様のことが言えます。もし本当に「自然研究」の方法で人間を研究しようとすれば、「自然法則」を捉える思考法では、人間の本質に迫れないことが感じられるはずです。そこで見えてくるのは、つねに「外なる自然」と同じ現象であり、その現象を通して、「本当の人間」が自己を表わしているのです。

 このことは「精神」によって体験されるべきことです。つまり、もし私たちが「自然法則」を捉える思考法で人間の前に立つのであれば、それはまるで絵画の前に立ちながら、ここに「青」がある、ここに「赤」があるということしか分かっていないのと同じことです。その青や赤という色彩のなかには、何か別のものが表現されています。しかし、その何かは、私たちの内面の心の働きによって、青や赤の色彩と関係づけられないかぎり見えてはきません。

 ですから、自然法則を捉える思考法で、鉱物に向かうことは適切です。しかし、その思考法で、人間に向き合うことはできないのです。そこでは別々の感性が必要とされます。霊的な観点からすれば、鉱物を見ることは、その本質に直接、触れることと同じです。しかし、人間に対しては、自然法則を捉える思考法では、いつまでも近づくことはできません。絵画(形象)が表現しているものに対しても、それを心の眼で見ようとせず、ただ触ろうとするだけであれば、けっして近づくことはできません。

 人間をあるがままに見たとき、私たちは、この人間は何かの形象(絵画)なのだ、ということに気づきます。そのとき、私たちは適切な心の気分のなかで、この形象のなかに描き出されたものへと近づいていくことができます。

 人間の形象性は、けっして単純なものではありません。たとえば、感覚器官は、もっとも形象性が少ないといえます。ちょうど鉱物のように、自己をそのまま直接的に表しているのが感覚器官なのです。つまり、感覚器官に対しては、「自然法則を捉える思考法」によって、もっとも接近することができます。たとえば、人間の「眼」の素晴らしい仕組みを見てみましょう。この眼の仕組みに対しては、自然法則を捉える思考法で迫っていくことができます。他の感覚器官も、―眼のように明らかでないにしても―、同様のことが言えるのです。感覚器官は、その「形態」の形成に関して、一定の完結性を示しています。つまり、感覚器官は「完成された」形態として生体に組み込まれています。だからこそ、感覚器官は、外なる「完成された世界」の知覚内容を人間の心に伝達できるのです。

 しかし、生体のなかで生じる「リズム性」の過程はそうではありません。これらの過程は「完成されたもの」を表わしてはいません。リズム性過程のなかには、つねに生体の「発生」と「消滅」が起こっています。もし感覚器官がリズム性のものであったなら、人間は外なる世界を、絶えざる「生成過程」にあるものとして知覚することになるでしょう。

 感覚器官は、まるで壁に掛けられた絵画です。リズム系は、現象として現われます。いわば絵画が描き出されていく過程で、カンバスと画家を眺めているようなものです。そこでは絵画はまだ完成されてはいませんが、つねに存在の度合いを増していきます。リズム系を考察することは、「発生」とかかわることです。人間のリズム系のなかでは、発生・構築には、ただちに消滅と解体が続きます。いわばリズム系には、いままさに描きだされつつある絵画、発生過程にある形象が現われているのです。

 そのようにして、私たちの心は、目の前にあるもののなかに、感覚を働かせつつ没入することができます。そのときの心の働き、つまり「完成された形象」に対する心の働きは、「イマジネーション」と呼ばれます。そして、「生成過程にある形象」に向き合ったときの心の体験は、「インスピレーション」と呼ばれます。

 人体の代謝系や運動系を考察するときは、また事情は違ってきます。そこではいわば、まだ真っ白なカンバス、使われていない絵の具、まだ描き始めていない画家を前にしています。もし四肢・代謝系を捉えようとするなら、私たちは「感覚を超えた知覚」を発達させなければなりません。つまり、私たちが絵の具や白いカンバスや画家の姿を見たとしても、そこで見えている光景は、あとから画家が描きだす絵画とは何のかかわりもありません。私たちの心は、代謝活動や運動のなかに、純粋に霊的に「人間」を体験することができます。それは、画家、白いカンバス、絵の具を見るとき、その光景のなかに、後に描きだされる絵画を体験するようなものなのです。四肢・代謝系に対しては、心の中に「イントゥイション」が働いていなければなりません。そうして初めて認識が可能になるのです。

 アントロポゾフィー協会のなかで、積極的に活動される方々に申し上げます。アントロポゾフィーによる知見について何かを書かれたり、お話されたりするときは、以上のような仕方で、アントロポゾフィーによる「考察の基本」を示していただきたいのです。なぜなら、アントロポゾフィーによってどのような知見が得られるのか、ということだけではなく、いかにしてその知見の内容が体験されるのか、ということ。そのことを知ってもらうことが重要だからです。

 以上に述べたところから、次の指導原理へと考察の道を歩んでいきたいと思います。

(訳・入間カイ)


アントロポゾフィー指導原理 (37)

2008-10-14 16:46:25 | 霊学って?
37. In der selben Art kann man an der Betrachtung des rhythmischen Teiles des Menschenorganisation eine Hilfe haben für das Verständnis von Inspirationen. Der physische Anblick der Lebensrhythmen trägt im Sinnesbilde den Charakter des Inspirierten. Im Stoffwechsel- und Gliedmaßensystem hat man, wenn man diese in voller Aktion, in der Entfaltung ihrer notwendigen oder möglichen Verrichtungen betrachtet, ein sinnlich-übersinnliches Bild des rein übersinnlichen Intuitiven. (Rudolf Steiner)

37.
同様に、人体のリズム機構を考察することは、インスピレーションを理解するための助けになる。生命リズムは肉体という物質のなかに現われる。それを考察することは、感覚によって捉えた形象のなかに、「インスピレーションによって生み出されたもの」の特性を捉えていることになる。代謝と四肢の系には、つねに必然的に実行している活動と、可能性として備えている活動がある。そのいずれにせよ、この系の活動が活発に展開されているところを考察するとき、私たちは感覚を超えた純粋なイントゥイションに向き合っているのである。このときの形象は、感覚によって捉えられるものであり、同時に感覚を超えているものでもある。(訳・入間カイ)


インスピレーションは、
息を吸ったり、吐き出したり、
心臓がドクン、ドクンと鼓動したり、
生命がもつリズムとかかわっています。

呼吸も、血液循環も、肉体の働きです。
それは一見、目にみえるように思われます。
でも、私たちが見ることができるのは、
その時、その時の肺や心臓の状態だけです。
呼吸そのものや、血液循環そのものは、
時間の流れのなかで起こることなので、
そのプロセスを全体的に「見る」ことはできません。

それは植物の生長も、
人間の子どもの成長・発達も、同じです。
私たちが目にするのは、
その時、その時の「成長の結果」なのです。

イマジネーションというのは、
ちょうど人間の頭部がそうであるように、
そのようなプロセスがもたらした「結果」を
時間のなかのプロセスごと認識することだといえます。

ところが、
人間のからだのなかには(また自然界のなかにも)、
必ずしも「結果」には到らないまま、
つねに二つの対極の間を行ったり来たりしている器官があります。

それがたとえば肺や心臓の「収縮」と「拡散」なのです。
そして、
そのような人体の「目にみえる働き」を考察するとき、
私たちは実は、私たち自身のなかの同じ作用、
つまり呼吸器や循環器を生み出したのと同じ作用を使って、
呼吸や循環という現象を考察しているということです。

同じ「考察」であっても、
頭部の、すでに完成し、静止したかたちを考察する場合と、
つねに収縮と拡散を繰り返す呼吸器や循環器を考察する場合では、
そこに対応する「心の機能」が違うのです。

リズム機構を考察することが、「理解の助け」になるというのは、
この考察を通して、
私たち自身のなかの心の動きに気づくことができるからです。

この心の動きとは、
たとえば感情の動きであり、
インスピレーションを「認識の力」として捉えた場合は、
感情を主観的なままにとどめるのではなく、
「感じる」ということを「認識」にまで高めたものが
インスピレーションであるといえます。

さらに、
人体のなかでは、たえず代謝という「化学反応」が起こっています。
それは外から取り込んだ食べ物を分解して、
そこから人体を新しく造り上げていくための素材を得たり、
生命活動を維持するためのエネルギーを得たりするためであり、
この代謝活動は、つねに動いていなければなりません。

そこには、生きることへの意志がつねに働いているといえます。

また、手足を使って行為することは、
代謝活動とは違って、つねに動いているわけではありませんが、
自分が何らかの行為への意志をもったとき、
その意志を実現するために動かすことができます。

このことをシュタイナーは
「必然的に実行している活動」と
「可能性として備えている活動」と言ったのです。

そして、
そのような代謝活動や、手足の動きを考察するとき、
私たちは、自分自身のなかの「意志の働き」に気づくというのです。

この意志は、生命活動や、人間の意識的な行為のなかに
いわば「目にみえるかたち」(形象)として現われますが、
同時にそれは、純粋に霊的なものでもあるわけです。

この世界に存在するすべては、
「存在への意志」によって現われたともいえるからです。

イントゥイションとは、
「存在を生み出す」ほどの霊的な力であるといえます。
その純粋な力が、
私たち一人ひとりのなかに「意志の力」として宿っています。

そして、この意志の力を認識の力としてもちいたとき、
私たちは、
存在を生み出すほどの霊性そのものを認識するのです。

なぜなら、
私たち自身の行為とは、実は
これまでまったく存在していなかった新しいものを
一人ひとりの「私」を通して
生み出していくことだからです。

私たちが自分自身の創造性に気づいたとき、
私たちは世界のなかに働く創造性にも気づくわけです。
そして、そのきっかけとなるのが、
私たち自身の人体のなかの、
生命の基盤である代謝活動と
自由な行為の基盤である四肢(手足)に目を向けることなのです。

アントロポゾフィー指導原理 (36)

2008-10-13 07:46:49 | 霊学って?
36.
前項で述べた霊的観点から、人間の頭部を考察することができる。すると、頭部を考察すること自体が、霊的イマジネーションを理解する助けになる。なぜなら、頭部の形態というものは、いわばイマジネーションの形態が物質的な密度にまで凝固したものだからである。(訳・入間カイ)

36. Wer von diesem geistigen Gesichtspunkte aus das menschliche Haupt betrachtet, hat an dieser Betrachtung eine Hilfe zum Verständnisse geistiger Imaginationen; denn in den Formen des Hauptes sind imaginative Formen gewissermaßen bis zur physischen Dichte geronnen. (Rudolf Steiner)


この36項では、
シュタイナーは「認識の三つの力」が、
つまりイマジネーション、インスピレーション、イントゥイションが、
人間の身体の形成にかかわっていると述べています。

つまり、人間にとっての「知る」という行為は、
霊的な観点からは、「創造」という行為とつながっているのです。
いわば身体の三層構造と、認識の三つの階梯が対置されます。

この項で重要なのは、
「考察すること自体が、・・・理解する助けになる」ということです

ここでの「考察」は、「見る」ということです。

人間の頭のかたちは、
それを見ようとする私たちにとって、
「外観」として現われます。
ちょうど彫刻やデッサンをするときのように、
私たちは頭の形や顔のつくりを、
その隆起や窪み、曲線や角を
目でたどることによって把握します。

そのように「かたち」を観察し、考察する力そのものが、
イマジネーションによる「世界創造」の働きなのです。

シュタイナーが「イマジネーションの形態」というとき、
それは「創造のもととなる目にみえないかたち」を意味しています。

私たちが「目にみえるかたち」を見て、
その形態の上に視線を動かすことよって、かたちを理解するように、
「目にみえない形」(イマジネーションの形態)のうえを
エーテルや物質の流れがたどることによって、
そこに目にみえる形が浮かび上がってきます。
それをシュタイナーは「凝固」といったのです。

身体のかたちを私たちが本当に見つめるなら、
私たちは自分のなかのイマジネーションの力によって、
そのかたちを捉えることになります。

そして、私たちの内に働いているイマジネーションの力と、
人間の頭部のかたちを生み出した力の作用が同じものであると感じられたとき、
私たちは「イマジネーションの理解」に近づいたといえるのです。

アントロポゾフィー指導原理 (35)

2008-10-12 09:24:33 | 霊学って?
35.
人間の肉体の本質を理解するためには、肉体を霊性や心性の「形象」(イメージ)として見なければならない。人間の肉体は、それだけでは理解不可能なものにとどまり続ける。しかし、肉体はそれを構成するさまざまな「節」や部分において、霊性や心性をさまざまな形象(イメージ)として表しているのである。頭部は、霊性と心性のもっとも完全な、完結した「意味形象」(象徴)である。代謝と四肢の系に属するすべては、形象としては、まだ最終形態に到っていない。いままさに本来の形態を完成させようとしている段階にある。人間のリズム機構に属するすべては、霊性・心性と物質性との関係において、この二つの対立する極の中間に存在している。(訳・入間カイ)

35. Man versteht das physische Menschenwesen nur, wenn man es als Bild des Geistig-Seelischen betrachtet. Für sich genommen bleibt der physische Körper des Menschen unverständlich. Aber er ist in seinen verschiedenen Gliedern in verschiedener Art Bild des Geistig-Seelischen. Das Haupt ist dessen vollkommenstes, abgeschlossenes Sinnbild. Alles, was dem Stoffwechsel- und Gliedmaßen-System angehört, ist wie ein Bild, das noch nicht seine Endformen angenommen hat, sondern an dem erst gearbeitet wird. Alles, was zur rhythmischen Organisation des Menschen gehört, steht in bezug auf das Verhältnis des Geistig-Seelischen zum Körperlichen zwischen diesen Gegensätzen. (Rudolf Steiner)


この35項で、シュタイナーは
はっきりと「形象」(Bild)ということばを、
人間の「肉体の本質」を表すために使っています。

ドイツ語のBildは、「絵」とか「イメージ」という意味ですが、
その動詞形は bilden で、形成する、形づくるという意味です。
生命体(エーテル体)の力は、bildenする働きです。
同時に、「教養」のことをBildungといったりするので、
「教養」を意味するドイツ語のもともとの語感のなかに、
「人間形成」というニュアンスが含まれているわけです。

そして、このBild(形象)という言葉を使って、
シュタイナーは、
人間の目にみえる身体のなかには、
目にみえない霊性や心性(精神や心の働き)が
その「形成」にかかわっていることを示唆しているのです。

頭部は「すでに完成された形」(静)であり、
代謝系と四肢は、いままだ作業中(動)であり、
リズム系(血液循環と呼吸)は、物質と霊性をつなぐ中間に働いています。

このような身体の三つの領域を「形象」として捉えるところから、
シュタイナーの人間学は始まるといえます。

アントロポゾフィー指導原理 (34)

2008-10-11 10:02:01 | 霊学って?
34.
リズム機構は中心にある。ここで自我機構とアストラル体は、物質とエーテルの部分と結びついたり、またそこから離れたりを繰り返す。この結合と分離を物質的に写し出すのが、呼吸と血液循環である。息を吸う(吸気)過程は、結びつきを写し出す。息を吐きだす(呼気)過程は、分離を写し出す。動脈血のなかのさまざまな過程は結合を表わし、静脈血のなかのさまざまな過程は分離を表わしている。(訳・入間カイ)

34. Die rhythmische Organisation steht in der Mitte. Hier verbinden sich Ich-Organisation und Astralleib abwechselnd mit dem physischen und ätherischen Teil und lösen sich wieder von diesen. Atmung und Blutzirkulation sind der physische Abdruck dieser Vereinigung und Loslösung. Der Einatmungsvorgang bildet die Verbindung ab; der Ausatmungsvorgang die Loslösung. Die Vorgänge im Aterienblut stellen die Verbindung dar; die Vorgänge im Venenblute die Loslösung. (Rudolf Steiner)


この34項にも、
シュタイナーの人間学の「中心的」な考え方が述べられています。
まさに「リズム機構は中心にある」のです。

身体のなかには、さまざまなリズムが生じています。
最近では、「時間生物学」などの分野によって、
この「生体リズム」が科学的に詳しく研究されるようになりました。

人体の中央には、心臓と肺があります。
この領域は、人間の「心」と直結しています。
嬉しかったり、悲しかったり、
緊張したり、不安になったりすれば、
そうした心の動きは、ただちに呼吸や心臓の鼓動に現れます。

シュタイナーは、
人間の本質を、「霊性」と「物質性」の相互関係のなかに見ています。
これまで何度も書いてきているように、
霊性と物質性は、別々のものではなく、
同じ一つの現実が、別々の現れ方をしているものです。

つまり物質は、人間の意識にとって「外界」として現われます。
そして精神(霊性)は、人間の意識にとっては、
自分自身の「内面」として現われます。

たとえば、かりに人体を解剖して、
人間の身体の「内部」を覗いていったとしても、
そこに見えてくる物質の臓器や組織も、あるは細胞も、
それを見ている人間の「意識」にとっては、どこまでも「外」にあるものです。
そして、それを見ている人間の考えや感想は、
人間自身の内面に現われるのです。

この「内」と「外」の関係が、
シュタイナーの「霊性」と「物質性」の関係を理解するうえでの基本です。

そして、これまでの指導原理では、
人間の「死」によって、
この「内界」と「外界」が逆転するということを詳しく見てきました。
その理解のうえに、
シュタイナーは今、人間の身体のつくりを見ていこうとしています。

つまり、
人間の身体のなかでも、
この「内」と「外」のたえざる反転が起こっているということです。
そして、その反転が起こっている現場が、
人間の心臓や肺を中心とする「リズム機構」なのです。

ちなみに、機構(Organisation)という言葉は、
体制とも、組織とも訳せますが、
要するに、一つの「生きた秩序」をもったシステム(系)のことです。
人間の身体のなかには
自我によって秩序づけられたシステム(自我機構)や、
リズムによって秩序づけられたシステム(リズム機構)が
全身にくまなく働いている、という考え方です。

さらに、そのなかでも、リズム機構は「中心」だというのです。
なぜなら、
心臓や肺を中心とするリズムのなかで、つまり
息を吸ったり吐いたり、
血液のなかで、酸素や二酸化炭素との結合や分離が起こったりするなかで、
「意識」と「無意識」
「内」と「外」
あるいは「霊性」と「物質性」が
たえず出会い、また分離していくことによって、
人間の地上における生命が成り立っているからです。

そのように、身体の中で起こっている現象、
そして地上における生命という現象を、
つねに「霊性」と「物質性」のかかわり合いとの関連で見ていくこと、
つまり、つねに「内」と「外」を視野に入れて、
「全体としての現実」を捉えようと努めることが、
シュタイナーの人間学の基本的なまなざしといえるのです。

アントロポゾフィー指導原理 (33)

2008-10-10 23:53:14 | 霊学って?
33.
人間の四肢・代謝にかかわる部分では、人間本性の四つの「節」が相互に密に結びついている。ここでは自我機構とアストラル体は、物質やエーテルの部分と「並んで」存在してはいない。自我機構とアストラル体は、物質やエーテルの部分のなかに入り込み、それらを活性化している。あるいはそれらの成長のなかに、運動能力のなかに作用している。そのため、四肢・代謝にかかわる部分は、萌芽のようなあり方をしているといえる。つねに成長への意志をもち、つねに「頭」になろうと努力している。ところが、人間が地上で生きている間は、この「萌芽」はつねに抑え込まれているのである。(訳・入間カイ)

33. In dem Gliedmaßen-Stoffwechselteil des Menschen sind die vier Glieder der Menschenwesenheit innig mitteinander verbunden. Ich-Organisation und astralischer Leib sind nicht neben dem physischen und ätherischen Teil. Sie sind in diesen; sie beleben sie, wirken in ihrem Wachstum, in ihrer Bewegungsfähigkeit und so weiter. Dadurch aber ist der Gliedmaßen-Stoffwechselteil wie ein Keim, der sich weiter entwickeln will, der fortwährend darnach strebt, Haupt zu werden, und der fortwährend davon während des Erdenlebens des Menschen zurückgehalten wird. (Rudolf Steiner)


この指導原理の文章は、どれも非常に凝縮されていて、
いつも思うのですが、
一つの指導原理の内容だけで、一冊の本とか、いくつもの講演ができるほどです。
実際、シュタイナーは、
世界各地のアントロポゾーフたちが、
自由にアントロポゾフィーを語ることができるように、
それでいて、一つの同じ精神的背景や基盤を共有できるように、
この「アントロポゾフィー指導原理」を提供し、
これを各自が活用してほしいと願ったのです。

この33項も、
アントロポゾフィー医学に直結する「身体観」を述べているのですが、
その内容を理解していただくための解説を書くには、
膨大な量の文章を書かなければならない、と改めて思います。
そこでここでは、
シュタイナーが特に強調したかったと思われるエッセンスに絞って、
僕の現時点での理解を書いておこうと思います。

ここで「四肢」というのは、おもに手足のことです。
「軽いフットワーク」とか、
「手を使った仕事」とかいうように、
人間の仕事や行為は、手足と結びついています。
足で歩いて移動し、
腕や手を使って、ものを作ったり、字を書いたりと、
人間は、この地上で自分の「意志」を表すために
四肢=手足を使うのです。

シュタイナーは、そのような「四肢」を
「代謝系」と結びつけて考えていました。
「代謝」(新陳代謝)というのは、簡単にいえば
古いものと新しいものが入れ替わることです。
人間の身体のいたるところで、この「代謝」が起こっています。
人間が食べ物を食べるということは、
人間の外にある「物質」を噛み砕いて消化する、
つまり徹底して分解して、
自分の身体の素材にふさわしいものに造り変えること、
あるいは分解することによって、
自分の活動に必要なエネルギーを得るということです。
そして、その残りかすや、老廃物は、
排泄によって、身体の外に出されます。

そのような代謝活動がなければ、
人間は地上で生命を維持することも、
仕事のためのエネルギーを得ることもできません。
つまり、代謝系もまた、
人間の「意志」の実現のために存在しているといえます。
その意味で、シュタイナーは
四肢(手足)と代謝活動を
人間の「意志」との関連で、同一の「系」と見なしたのです。

さて、この系では
人間の「四つの節」が相互に密接に結びついている、と記されています。
そのなかでも、「自我機構」という考え方が重要です。
シュタイナーは
「自我」と「自我機構」を区別して使っています。
自我、というのは「私」という自覚であり、
「精神」もしくは「霊」そのものです。
自我機構は、そのような自我の、
身体における働きなのです。
たとえば病原体を「異物」として認識する免疫系もそうですが、
身体の統一性、もしくは
身体における「自己」を成り立たせているのが自我機構である、
といえるかと思います。

たとえば、外界から食べ物を摂取したとき、
その食べ物によって自分が「別人」に作り替えられるのではなく、
まず食べ物を「自分の身体にふさわしい素材」に作り替えるのは、
自己の統一性にかかわる自我機構の働きがあるといえます。
そのように身体の代謝活動のなかには、
自我機構の働きが「入り込んでいる」のです。

次に、アストラル体(感覚体)ですが、
これは感覚や感情を伝達することで「内面」を生み出す作用であるといえます。
身体のなかでは、神経系がこのアストラル体の働きを担っています。
前項で取り上げた「頭部」には、
神経系が「脳」や「脊髄」(中枢神経)として集中しています。
特に、おもな感覚器である眼や耳、鼻(嗅覚)、口(味覚)は、
頭部に集まっています。
これらの感覚は、ほとんどが「意識できる」ものです。

私たちの「心」は、
これらの感覚を通して、外から内面へ伝えられたもので満たされています。
私たちの「心の内容」の大半は、
こうした感覚を通して伝達された「外界からの刺激」であり、
またそれらの刺激に触れて、私たちの内面に生じる反感や共感の感情です。
そういった「心の反応」とはべつに、
私が自分で考えたことや、意識的な決意など、
私たちの自我にかかわる部分があります。
それもまた私たちの「心の内容」になります。
それはすべて私たちが意識できる心の内容です。

もちろん、頭部も身体の一部なので、
そこでも新陳代謝は行われ、
生命活動が展開されています。
しかし、そうした生命活動とはべつに、
私たち一人ひとりの意識が存在しています。
いわば頭部においては、肉体やエーテル体からは独立して、
意識できる「心の内容」が存在しているのです。

ところが、代謝活動が集中する腹部の臓器のなかでは、
私たちの意識が及ばないところで、
複雑な生命活動が展開されています。
しかし、頭部とは違って、
そうした生命活動と並行して、
意識的な心の内容が生じているわけではありません。

アストラル体を担う神経は、
脳や脊髄から全身に延びていきます。
胃や腸や肝臓など、代謝活動の臓器のなかにも、
「自律神経」という神経が働いています。
しかし、この自律神経はまったく無意識の働きです。
いわば、自我機構とアストラル体は、
―つまり身体の統一性と感覚伝達の作用は―
代謝活動のなかに完全に入り込んでいるのです。

同じことは、腕や脚(四肢)の動きについてもいえます。
私たちは、意識して手足を動かしているように感じますが、
私たちが意識できるのは、「手を動かしたい」という自分の意志と、
実際にその意志に従う手の動きだけです。
その時の手の動きを成り立たせている生理的な作用は、
まったく意識されることはありません。
そこでも神経(運動神経)は、完全に運動機能のなかに入り込んでいます。

説明が難しいのですが、
代謝活動と運動においては、神経も自我機構も完全に仕事と結びついており、
脳におけるように、意識と無意識が並存することはない、ということです。

そして重要なのは、
この身体についての捉え方が、
これまでの「生」と「死」の関連、
つまり「死」という通過点における
「内界」と「外界」の反転という関連のなかで出てきている、ということです。

シュタイナーは、
人間の身体のなかでも、実は
「内」と「外」のたえざる転換が起こっていると示唆しているのです。

「脳」おける意識(心の内容)は、
腹部における臓器のなかの自律神経の無意識につながっています。
しかし、臓器のなかで起こっていることが「意識」されることはありません。
もし臓器の仕事が意識されることがあるとすれば、
そのとき代謝系は「頭」と同じあり方をすることになるでしょう。

シュタイナーは、
四肢と代謝系は「脳」になろうとしている、と言っているのです。
いわば手足という運動器が、脳を守る頭蓋骨になり、
代謝系が脳そのものになる、といったイメージでしょうか。

しかし、そんなことになれば、人間は地上で生きていくことはできません。
ですから、自我機構とアストラル体が、
代謝系の臓器や運動器官のなかで何を体験しているのかは、
人間が生きている限りは、無意識のままに抑えられているのです。

しかし、
ちょうど人間が死後、意識の宇宙的な広がりを体験するように、
四肢・代謝系のなかでも、もしそれを意識できたならば、
人体という小宇宙における
ある宇宙的な広がりを体験することになるのです。

それが、
僕がこの33項に読み取っているエッセンスの部分です。