私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目覚めよ」誌・「ものみの塔」誌
パンフレットより引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。
あなたは神と共に歩みますか
『慎みをもってあなたの神と共に歩め』。
(ミカ 6:8)
聖書では人生がしばしば,旅することや歩くことに例えられています。
はっきりそれと分かる比較もあれば,暗示されている箇所もあります。
例えばイエスは,「あなた方のうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に1キュビトを加えることができるでしょうか」と語りました。
(マタイ 6:27)
『あなた達のうちのだれかが、心配して寿命を一寸でも延ばすことが出来るのか』。
(マタイ 6:27)
この言い方には腑に落ちない部分があるかもしれません。
なぜイエスは,時間で計られる「寿命」に,距離の単位である「1キュビト」を加えることについて述べたのでしょうか。
イエスは人生を旅に例えておられたようです。
実のところイエスは,思い煩ったからといって,人生の歩みにわずかな一歩さえ加えることはできない,と教えておられたのです。
とはいえ,人間はその歩みの長さについて,どうすることもできないと結論づけるべきでしょうか。
決してそうではありません。
そこで関係してくるのが次の質問です。
なぜわたしたちは神と共に歩む必要があるのでしょうか。
なぜ神と共に歩む必要があるのか
不完全な人間は何を切実に必要としていますか。その必要を満たすために神に頼るべきなのは,なぜですか。
神と共に歩む必要がある一つの理由について,エレミヤ 10章23節はこう述べています。
「主(神)よ,わたしは知っています,人の道は自身によるのではなく,歩む人が,その歩みを,自分で決めることのできないことを」。
ですから人間には,自分の生き方を導く能力も権威も備わっていません。
わたしたちは導きを切実に必要としています。神から独立してあくまでも自分の道を歩もうとする人は,アダムやエバと同じ過ちを犯します。
最初の夫婦であるこの二人は,善悪を自分で決める権利があると考えました。
『主なる神が造られた野の生き物のうちで,最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない,などと神は言われたのか」。
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも,園の中央に生えている木の果実だけは,食べてはいけない,触れてもいけない,死んではいけないから,と神様はおっしゃいました」。
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると,目が開け,神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。
女が見ると,その木はいかにもおいしそうで,目を引き付け,賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ,一緒にいた男にも渡したので,彼も食べた』。
(創世記 3:1~6)
その権利はわたしたちには全く『属していない』のです。
人生という旅路には導きが必要だと思われませんか。
わたしたちは日々,大なり小なり何らかの決定を下さなければなりません。
中には決定しにくい問題もあります。
下す決定が自分や身近な家族の将来に影響を及ぼす場合もあります。
しかし,考えてみてください。
それらの決定を下すとき,わたしたちよりはるかに年長で知恵のある方が,愛情のこもった導きを快く与えてくださるのです。
残念なことに,今の人たちの大半は,自分自身の判断を信頼して自分の歩みを導くことを好みます。
「自分の心に依り頼んでいる者は愚鈍であり,知恵によって歩んでいる者は逃れることになる」と述べる箴言 28章26節の真理を無視します。
神はわたしたちが,人間の不実な心を信頼することから生じる災いに遭わないように願っておられます。
「心はほかの何物にも勝って不実であり,必死になる。だれがこれを知りえようか」。
(エレミヤ 17:9)
わたしたちが知恵をもって歩み,賢明な導き手かつ教訓者としてのご自身を信頼するよう願っておられます。
わたしたちがそうするとき,人生の歩みは安全で満足をもたらす,充実したものとなります。