(書評)
藤子・F・不二雄『ドラえもん0(ゼロ)』(小学館)
対話の前提には共有する物語がなければならない。
<偶(たま)には、愛とか恋とかいう問題も、口に上がらないではありませんでしたが、何時(いつ)でも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十九)>
「抽象的な理論に落ちてしまうだけ」なのは、なぜか。「愛とか恋とかいう問題」を描いた物語を共有していなかったからだ。語り手Sは〈恋愛体験がないからだ〉と暗示しているのだろう。この暗示は虚偽だ。体験を語る際にも共有する物語は必要。
なお、困ったことには、Sは「抽象的な理論」について語っていない。だから、この文は朦朧としている。
現在のほとんどの日本人が共有している物語といえば、『ドラえもん』だろう。〈あいつはジャイアンだ〉というだけで〈あいつ〉の性格が想像できてしまう。『大長編ドラえもん』は別扱い。
ただし、限界はある。日本の有名なスポーツマンが「ドラえもんはのび太を甘やかしている」などと言っていた。日本の体育会系の人間は『ドラえもん』程度のものでも誤読するらしい。
さて、この第0巻には第1話が集めてある。
<1970年1月号の『よいこ』など幼児誌と『小学一年生』など学年誌で同時にスタートした「ドラえもん」。それらの第1話では登場人物やひみつ道具の特徴などが現在とはかなり違っており、驚かれる人も多いでしょう。
(『ドラえもん』第0巻解説)>
驚くべきなのは、ドラえもんの登場の仕方が各誌で違っていることだ。
ちなみに、学年ごとに編集した本も出ている。読みたいが、迷っている。
GOTO 『夏目漱石を読むという虚栄』
〔〔1113 Sはスネ夫のS〕夏目漱石を読むという虚栄 1110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
〔1433 吉本隆明〕夏目漱石を読むという虚栄 1430 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
〔5213 冬彦さん〕夏目漱石を読むという虚栄 5210 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
〔5241 「世界を掻(か)き混ぜて」〕夏目漱石を読むという虚栄 5240 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
(終)