ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 6210

2022-02-08 10:43:22 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

6000 『それから』から『道草』まで

6200 門外漢の『門』

6210 必要な罪悪感

6211 空っぽの物語

 

『門』を読んだ人は少なかろう。読んでも内容を記憶している人は少なかろう。

 

<友人を裏切って、その妻お米と結ばれた宗助が、都会の片隅でひっそりと暮らしつつ、過去の記憶に脅かされ、生存の根を求めて苦しむありさまを描く。

(『広辞苑』「門」)>

 

「友人」の名は安井という。「裏切って」は不正確。安井は、彼の妻だった御米を、「僕の妹(いもと)だ」(『門』十四)と宗助に紹介した。友人の妹と恋愛をするのは、当時の流行だったのかもしれない。「過去の記憶」は意味不明。「記憶に脅かされ」や「生存の根」は意味不明。

宗助は、意味不明の「記憶」ではなく、安井の復讐を恐れているようだ。復讐の動機や方法は不明。宗助は元「友人」と対峙しないで、妻を置き去りにし、寺に独りで逃げ込む。その理由は不明。結局、安井は登場しない。ただし、いつかやって来そうだ。その理由は不明。で、おしまい。おしまいになる理由は不明。例によって、尻切れ蜻蛉。

 

<前期3部作の第3作で、「それから」で提示された「自然」なる自我と「社会」との対立をさらに追及し、個人の良心の相克(そうこく)を顕在化させた。

(『近現代文学事典』「門」)>

 

「自然」が括弧でくくられているのは、『それから』の本文における「自然」が意味不明だからだろう。「自然」が意味不明だから、それと「対立」をする「社会」も意味不明で、当然、「対立」は意味不明。「良心の相克(そうこく)」は意味不明。

 

<精神分析では、神経症的な無意識の罪悪感が注目され、罰を求める要求が仮定される。一般には非難されるべきことを犯したという意識から罪悪感が生じるが、むしろ罪悪感がゆえに罪を犯すというように考えざるをえない病理的ケースがみられるからである。こうしたタイプの犯罪者は、無意識の空想的犯罪からおこる罪悪感から逃れるために現実に罪を犯し、その罪悪感を甘受する。現実に処罰されることによって無意識の罪悪感を現実の罪悪感に置き換えることができるので、心理的には解放感を得ることができると考えられる。こうした罪悪感は多くの場合、自我と超自我の葛藤(かっとう)によるものが多く、罪悪感は超自我に対する自我の不安であるといわれる。すなわち、自我は超自我の命令に従うことができないと自ら罰を受けようとする。これが無意識の処罰欲求とよばれるものである。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「罪悪感」外林大作/川幡政道)>

 

宗助と御米は姦通したことになっている。だが、その物語は空っぽ。宗助の妄想のようだ。彼は原因不明の不安から逃れるために姦通の物語を捏造しているらしい。母子相姦の物語の変形か。妻にさえ「友人」の来訪の可能性について語らない。

 

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6210 門外漢の『門』

6210 必要な罪悪感

6212 「厭世(えんせい)的の影」

 

安井は作品の内部の世界に実在したのだろうか。

 

<私の胸にはその時分から時々怖ろしい影が閃(ひら)めきました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十四)>

 

安井は、この「恐ろしい影」と区別できない。

 

<分裂病者では、前に説明したように、同調的な暖(ママ)かい心が枯れて、冷たく凝固した心が次第にはびこってゆくのが一般であるが、この気持は病者自身によっては自分の気持と感じられないで、外から自分の中に入ってくると感じられる。本当は自分の感情であり考えであるが、しかし病者自身がみれば、その考えは自分の外から自分をあざわらったり、そしたっり、おとしめたり、おびやかしたりする「声」となって響いてくる。普通の人でも、何か秘密をかくしていて、これを人に知られては大変だと思っているようなときには、外の人の方が自分を見張ったり、尾行したりしていると感じられる。自分の反感的な気持が外に投射されて、逆に外から入ってくるのである。分裂病ではこのメカニズムが常人の考えもつかないほど桁はずれな実感をもって迫る。

(島崎敏樹『病める人間像』「自殺にいたる病」)>

 

「冷たく凝固した心」から、「恐ろしさの塊り」(下三十六)という言葉が思い出される。

正体不明の「男の声」を、青年Sは聞いた。その体験を「私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます」(下十六)と、Sは回想している。

語り手Pは「常よりは晴やかな調子」(上三十一)だったSについて回想している。

 

<その眼、その口、何処にも厭世(えんせい)的の影は射(さ)していなかった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」三十一)>

 

このとき、Sは自殺の覚悟ができていたのだろう。妙にすっきりしていた。

 

<彼の表情にうかんでいる冷たい不動の微笑の奥にどんな気持が動いているのか、私どもは想像にとまどってしまう。ある娘は、親戚の家をたずねてお世辞笑いをとりつくろいながら一通りの世間話をして、帰る途中、ある橋にきかかったとき、その袂から脇へつたって河べりにおりて、持物と下駄を水際に揃え、そのまま入水して流れていってしまった。ある青年は、病院に入って治療をうけていたが、治療が大分進んで、多少明るい顔が見えるようになった頃、或日便所のなかで首を吊って死んでいた。

(島崎敏樹『病める人間像』「自殺にいたる病」)>

 

彼らの微笑は、絶望の極地における諦めの表出だろう。逆説的なSOSかもしれない。

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6200 門外漢の『門』

6210 必要な罪悪感

6213 『真景累ケ淵』

 

「恐ろしい影」の正体は不明だ。意図的に曖昧にされているのではない。

 

<狐(きつね)にばかされるということはあるわけのものでないから、神経病、また天狗にさらわれるということもないからやっぱり神経病と申して、なんでも怖いものはみな神経病におっつけてしまいますが、現在ひらけたえらいかたで、幽霊は必ずないものと定めても、鼻の先へ怪しいものが出ればアッと言ってしりもちをつくのは、やっぱり神経がちと怪しいのでございましょう。ところがある物知りのかたは、「いやいや西洋にも幽霊がある。けっしてないとはいわれぬ。必ずあるに違いない」とおっしゃるから、わたくしどもは「へえ、そうでございますか。幽霊はやっぱりありますかな」と言うと、またほかの物知りのかたは「なに、けっしてない。幽霊なんというはあるわけのものではない」とおっしゃるから、「へえ、さようでございますか、ないというほうがほんとうでげしょう」とどちらへも寄らずさわらず、ただ言うなり次第に、ないといえばない、あるといえばある、と言っておればすみまするが、

(三遊亭円朝『真景累ケ淵』一)>

 

怪談『真景累ヶ淵』は、心理小説《神経重ねが不治》に作りなおせる。

Dが「狐」や「天狗」や「幽霊」の類なら、まじないなどの対処法もあろう。Dが「神経病」による幻覚なら、「医者」に診てもらおう。占い師と医者の両方に診てもらうこともできる。ところが、本文ではどちらとも決まらない。だから、処置なし。

どちらでもありそうで、どちらともつかないのは幻想文学だろう。

 

<諸現象の合理的かつ必然的秩序という科学的概念が勝利を収め、因果の連累に厳密な決定論が認知されていなければ、幻想小説はあらわれえない。つまり、幻想小説とは、多かれ少なかれ誰もが奇蹟の不可能であることを納得した時代になって、はじめて生まれるものなのである。

(ロジェ・カイヨワ『妖精物語からSFへ』第一部)>

 

『こころ』は、幻想文学ではない。出鱈目なのだ。

 

<これらの遺産を経由して、アメリカのポー、フランス象徴派の優れた運動が展開された。さらに現実社会における自然科学圧制と近代物質中心利潤合理主義に対する人間性の拠点を、改めて幻想性に求める動きが、トルストイからトーマス・マンまでの19世紀型大リアリズム長編小説の枯渇への反定立として出てくるのが、シュルレアリスム、ダダイズム、表現主義その他ポップスである。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「幻想文学」由良君美)>

 

勿論、不条理でもない。普通に意味不明。

(6210終)


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