哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

極端な平等主義

2009-07-18 11:44:01 | Weblog
平等の価値に関する論文をずっと書いているのだが、どうも遅々として進まない。細かいところをいじくってると、それにかなりの時間をとられてしまうからだ。5月末に提出する予定だったのに・・・いま書いている箇所が一番大事なところなので、慎重に進めて行きたい。

いま書いている箇所で少し言及しているのが、Ingmar Persson, "A Defence of Extreme Egalitarianism," N. Holtug and K. Lippert-Rasmussen (eds.) Egalitarianism: New Essays on the Nature and the Value of Equality (New York: Oxford University Press, 2007), pp. 83-97. である。難解な論文だが、論文の目的は明快だ。格差をjustとする条件はない、したがって皆の福利が平等である場合、かつその場合に限り、事態は正しいとする極端な平等主義extreme egalitarianismが支持される--これがこの論文の言いたいことである。そこで主たるターゲットとなるのは、格差を正しいとする条件として受け止められる功績desertおよびその基礎をなす責任responsibilityである。ペアションは、責任が功績の基礎として、少なくともそれに対応する格差を正しいとする条件とはなり得ないという。

まずペアションの議論にみられる価値論体系に注意しよう。彼は、justとmorally rightを区別することの重要性を説く。後者は前者よりも重視されたり、ときに適用不能にするものである。たとえば、仁愛beneficienceに基づく行為(たとえば寄付)によって不平等な帰結が生じるとしよう。そのとき、その行為はjustではないが道徳的に許容(ないし要求)されると考えられる。また、自律autonomyの考慮は、正義justiceの考慮を適用不能にする。たとえば自らの選択でギャンブルして大損し、結果として格差が生じたとしよう。そのとき、不平等の事態はunjustではないとみなせる(なぜなら自らそれを選んだわけだから)。

以上の議論をふまえて、ペアションは不平等をjustとする条件について精査する。その最有力候補としてとりあげられるのが、功績である。功績の基礎として不可欠なのが当事者の責任であるが、その責任を付与する当の事実responsibility-giving factsを辿っていくと、責任がないところに結局行き着くことになる。したがって、仮に格差に対し直接的な責任direct responsibilityが当事者にある(善い振る舞いをした、悪い振る舞いをしたなど)としても、なぜその事実が責任を付与する事実なのかが問われてくる。通常の答えはおそらく、その当事者の意図や一定の能力の保有を引き合いに出すものだろう。問題は当事者の意図や能力の保有が、責任を構成するという事実に対し、その人が責任を有するかどうか、である。結局、究極的には責任がない部分にふれざるを得なくなる。要は、有限の存在である人間に関する議論である以上、無限背進は避けざるを得ないのだ。それゆえペアションは、極端な平等主義を支持するのである。

[感想]私から言わせると、この議論はペアションの価値論体系に即したものであって、正義をここまで純化させず、ヒューム的な状況依存性を正義にあてがえば、彼の言う直接的責任の正当化で格差のjustnessは主張可能だと思われる。したがって、たとえば自律的選択の結果、格差が生じた場合に、その事態はjustだと言うことになんら問題はなくなる(not unjustなんてまどろっこしいことを言う必要ない)。ペアションとは異なり、私は責任を伴う行為が現実にある世界の価値に貢献するという考え方をとる。しかし私は、平等はそうした現実にある価値を超えた究極的価値であるとする見方をとっている。私はこの正義と平等の関係の捉え方の方が、正義論・平等論を有意義なものにすると考える。いまこのことを論証する論文を書いているのだ。乞うご期待?