哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

解釈的概念としての真理-ドゥオーキンの近著をめぐって(2)

2012-03-25 04:53:40 | Weblog
ドゥオーキンの(価値の)ホーリズムと「よりよき解釈→唯一の正答」を両立させる鍵となる概念が、真理である。ドゥオーキンは、クリスピン・ライトが「決まり文句」とする、かの「雪は白いは雪が白いかつその場合に限り真である」で例示される真理のデフレ説the deflationary theory of truthを批判する。なぜならそれは、基準的概念として真理を扱う(すなわち、それに訴えれば文が真であると言える基準を示そうとする類のものだ)からである。それでは、たとえば「道徳的判断が真でありうる」ことが言えるとしても、「真理とは何か」という、真理の性質をめぐる問いでわれわれは同意に至っていない可能性を排除しない(173)。

ドゥオーキンがその代わりに提出する真理論は、真理を解釈的概念として位置づけるというものだ。真理を様々な概念や実践が織り成す、大きな価値ネットワークのなかで位置づけられるものとして理解するこの理論は、バーナード・ウィリアムズが言う真理性の価値the values of truthfulnessといった他の価値-正確さ、責任、誠実性、真正性-や概念-実在性、信念、調査、探究、主張、議論、認知、命題、言明、文-と相互に関連づけられるものである。真理の構想をはじめ、各概念を構想化したものは、そうした概念群と相互に関連づけられるなかではじめて意味をもつものである。

この解釈的概念としての真理は、いかなる領域でも適合する真理構想を提出する理論(対応説)の採用を促すよりは、違うジャンルで異なる真理の説明の仕方となる理論の採用を促す。前者は自然科学が常に例として引き合いに出される、昔ながらの一元論的真理論だが、後者の方が、真理が重要な役割を果たす様々な分野、実践-自然科学のみならず、道徳や法といったジャンル-に適合する。もっとも価値のホーリズムを擁護する立場からすると、この真理論は高度に抽象的な一理論として提出される必要があるのも確かである。すなわち、すべての領域にまたがって様々な価値が存在し(これは価値のホーリズムの前提でもある)、その整合性その他の価値がなぜ重視されるのかを示す真理論の必要性である。

これについてのドゥオーキンの提案は、自身が認める通り、暫定的かつ不完全なものだ。まず、真理を探究の本質的目的と特徴づけるべく、真理と探究を対概念かつ相互に関連づけられる概念として捉えるかたちで、高度に抽象的な真理論を打ち立てる。そうすることで、真理を探究のチャレンジへの一意の成功理の解決を提供するものとして位置づける。そのうえで、各領域での「成功」をより具体的に説明するあり方を見出すことで、真理の異なる領域におけるそれぞれの具体的特徴が得られることになる。こうして、価値のホーリズムを志向する理論は高度な真理論として位置づけられ、たとえば道徳的責任の理論は、道徳の領域というより具体的な領域に価値のホーリズムを適用したときに得られるものとして位置づけられることになる(177)。

[コメント]
このドゥオーキンの(暫定的かつ不完全な)真理論を、価値のホーリズムとよりよき解釈を両立させるものとして位置づけるには、大きなハードルがある。それは、真理性の価値とされる正確さや責任、誠実性、真正性の完全なリストアップと、そのリストアップによって示されるものが真であることの判断手続きを明示する議論(基準的概念としての真理)とどう違うのかを示さなければならない、という大きな課題である。ドゥオーキンはそうしたリストアップはせずに、真理性の価値とされるものを自明視し、プラトンやアリストテレスがやったこととして自らの議論の道筋を正当化しようとするが(184-8)、そのためには真理性の価値を完全にリストアップし、それがつくる価値のネットワークの説得性を示すことは不可欠である。

ただ、そうしたリストアップがなされたとしても、今度はその完全なリストは端的に真理基準を構成する要件となりうるのではないか、という疑いにさらされるだろう。ドゥオーキンが基準概念としての真理を擁護する論者としてあげているライトは、真理性の価値に相当するような誠実性等の要件を満たすことを要請する最小限真理minimal truthの理論を提示しているが、私にはドゥオーキンの議論が目指すところがこのライトの議論とどう違うのかはよくわからない(ライトも真理の各領域に適用するときの外延的多様性を認めている)。455-6頁の注18で、ドゥオーキン自身、類似性は認めつつつも、両者の違いを強調したいようだが、正直どこが違うのかは私にはよくわからない。

うがった見方かもしれないが、真理性の価値の不完全なリストアップを隠れ蓑にして、「いやそれこそ解釈でカヴァーすりゃいい」的ノリを看取できなくもない。それは到底、価値のホーリズムに規範性をもたせる真理論とは言えるようなものではないだろう。