哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

価値・概念・解釈-ドゥオーキンの近著をめぐって(1)

2012-03-22 01:23:14 | Weblog
単著に織り込む予定のドゥオーキンの平等論に関する議論(「ドゥオーキンは平等主義者か?」宇佐美誠・濱振一郎編著『ドゥオーキン』勁草書房、2011年所収)を、根本的な部分で変える必要はないと考えているのだが、それでも自らの哲学的基礎にまで踏み込んで法・政治哲学を展開するドゥオーキンの近著Justice for Hedgehogsを扱わなければならないとは思っている。精読を進めて行くに連れてストレスが溜まってゆく代物だが(カリカチュアの伴った類型化だけならまだしも、それがドゥオーキン(のこれまでの議論)に対する直接・間接の批判を代弁するものとして扱われ、しかも彼自身が擁護する立場は相変わらずの従来のもの、ってところが・・・)、いろいろと発見があるのも確かである。ということで、今回その点を中心に、彼の〈解釈interpretation〉をベースにした価値論を検討してみたい。

ドゥオーキンにとって解釈は、法概念論上の重要な鍵概念であるのと同時に理論と実践を成すもので、その重要性に疑いを挟む余地はないだろう(彼のこれまでの作品を読めば、それはあまりにも自明)。そうした法に代表される概念、とくに政治的・道徳的概念は、特定の価値を反映したものである。その概念と価値の連関は社会実践に埋め込まれており、だからこそ解釈が重要になってくる。ドゥオーキンに言わせれば、解釈は3つの段階を伴うものとして理解しうる(131-4)。
(1)解釈が求められる背景(たとえば伝統やジャンル)の同定
(2)解釈の目的を想定(特定の伝統やジャンルにその解釈実践を帰す)
(3)ある解釈が別の解釈より、その目的をよりよく実現する状態の同定

(1)について。これは、価値あるものや出来事、あるいは価値そのものを概念的に解釈する実践に従事するにあたって、その実践の解釈をも求められてくることを意味している。この、解釈は解釈を徹頭徹尾求めて行くとする循環的構造(俗に?解釈学的循環といわれるもの)は、厳密には循環を意味しない。というのもドゥオーキンは、その永続的な解釈実践にこそ、概念の解釈から新しい構想conceptionが生まれる鍵があると考えるからだ。それはそうした解釈が著者や発話者の意図から離されて、コミュニティのなかで(再)創出されることと関係している(したがってこの手の概念の場合、創造者と解釈者の区分はなくなる 136, ch. 8)。

(2)について。価値を反映する概念の解釈を目的とすると、おのずと他の価値や当の価値の別側面の理解を要請するものとなる。とくに道徳的概念の場合には、それが顕著に表れる。すなわち、様々な道徳的確信がそうした価値の諸側面を構成し、それぞれがそれぞれの側面を互いに依存しあっており、その価値の全貌は互いを照らし合わせながらそのネットワークを紐解いて行くことで明らかになる。その断続的な解釈が求められるプロセスは、多元的に織りなす価値の次元にまで及び、価値連鎖および諸価値の依存関係のなかで、真の価値が見極められてゆく。このようにドゥオーキンは、価値のホーリズムvalue holismを擁護する立場にある(120-1)。

(3)について。価値のホーリズムを擁護しつつ、よりよき解釈を示そうとすると、一貫性coherenceがまず問われてくる。われわれの道徳実践は、そうした一貫した価値および道徳的確信を追求する(道徳的)責任とともにあると考えるドゥオーキンは、その責任を果たすための道徳的確信の真正性authenticity、すなわち自らの人生を通じて、様々なチャレンジ遂行のもとでその手の道徳的動機づけが形成される点を強調する(108)。つまり一貫した道徳的確信は、その一貫性を批判的に吟味し解釈し続ける実践≒責任とともにある、というわけだ。このとき、価値や道徳的確信は究極的には衝突せず(衝突するようにみえるのは、われわれの不確実性uncertaintyのせいだとされる)、衝突しているようにみえる場合には常に再解釈する実践が求められる。これを支えるのが、(道徳的)真理(の探究)である(120)。

ということで、われわれは概念のあくなき解釈を通じて価値(あるもの)に迫って行くのだが、重要なのは適理性や正直さといった道徳的概念や自由や平等、正義、そして法といった政治的概念は、そうした解釈実践を不可避とする点である。例やケースの同定にあたって同じ基準を適用しうるときに、われわれは基準的概念criterial conceptを使っていると言える(たとえば正三角形や本など)。正義のような政治的・道徳的概念は、そうした適用の手続き(テスト)を含意する概念ではない。この点で、ロールズの正義概念の捉え方、すなわち正義について合意をみせていなくてもその基準(利益・不利益の非恣意的配分)は適理的に共有されている、とする見方は間違っている(166-7)。また正義概念を自然種概念natural-kind conceptとして捉えようとしても失敗する。なぜなら、仮に当の概念を規定するある何らかの本質的性質について合意があっても、その性質が何なのかについて合意がないことはありうるからだ(168-9)。したがって、正義概念に代表される政治的・道徳的概念は、解釈ベースとせざるを得ない-こうドゥオーキンは主張する。

【コメント】
従来の主張の繰り返しの部分があるし、これでもって本当に内在的懐疑論が斥けられるかは微妙だが(ドゥオーキンの真理観が説得的かどうかでほぼ決まる?)、面白いのはドゥオーキンがロールズによる正義概念の位置づけに対して批判的である点だ。ロールズに対してかなり好意的であったこれまでの主張と比較すると、目を引く点である。ただ、構想志向という点で両者に違いはなく、それを手続きベースで体現しうるとみるか(ロールズ)、解釈によって可能となるとみるか(ドゥオーキン)の違いである。また、ともにホーリズムを支持しているという点でも、変わりはないだろう。

一番気になるのは、そのホーリズムとよりよき解釈(を促す実践)の関係である。重要なのは、前者が後者をどう導くかである。鍵は、真理の規範性である。すなわち、ドゥオーキンがその規範性を十全に示すことに成功しているかどうかで、前者が後者を十全に導くことが示されうる。とくに価値のホーリズムが縮小再生産、ないしダメダメな道徳的確信同士の整合性を高めているだけではないかという批判に応えるためには、真理の規範性を十全に示すことが肝要だ。ドゥオーキンはそれに成功しているとは思えないのだが、その詳細は次回以降に。