哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

Norman Dahl氏招聘セミナーに参加して

2010-03-15 07:51:53 | Weblog
久しぶりの更新。その間、何も勉強してなかったわけじゃないが、勉強録を書く暇はなかった(と言い訳をしておく)。今回は、3月13日に参加した慶應の成田和信先生の科研費研で報告された(成田先生のミネソタ時代の指導教授であった)Norman Dahl氏のペーパーについて、いろいろと考えさせられるところがあったので備忘録として記すことにしたい。ちなみにDahl氏は大変気さくな方で、こちら側のへたくそな英語による質問にも丁寧に答えていただいただいたし、懇親会でのお酒はたいへん楽しかった。懇親会では、ミネソタ大学の学生は街に住むらしく、キャンパス内のコミュニティがそれほど発達していないこと(これはアメリカの地方の大学にしてはめずらしい)や、Thomas NagelやDavid Pearsとのなれそめなど、普段日本ではなかなか聞けないような話が伺えて楽しかった。

さて、Dahlのペーパーだが、タイトルは"A Moral Basis for Blameworthiness and Excuses"で、小生が今後取り組まなければならないテーマ(責任基底的な正義構想)を考えるうえで重要なイシューが詰まったペーパーであった。Dahlの主張は、blameworthinessに絡む問題(自由意志の欠如は免責事項になるかどうか、といった問題)は道徳的な問題で、概念的なものではないというもの。とくにblameworthinessを打ち消す(あるいはその程度を和らげる)exonerating excusesは、カント主義的原理によって正当化可能であるとしている。カント主義的原理とは、人々は実践理性practical reasonを行使して(あるいはその行使に失敗して)何かを引き起こすことを自ら決める能力が、他の全ての人がその能力を同程度にもつことと両立可能なかぎり、それについていかなる者も干渉すべきでないし、むしろその能力を積極的に育成すべきである、というものである。要は、実践理性にしたがって行為するという格律は、普遍化可能なもの(普遍法則として意志しうるもの)でなければそれに値しないという、例の形式的原理である。それによって、exonerating excusesがblameworthinessをなぜ打ち消す(緩和する)のかは、一応説明できるというのだ。

というのも通常のexonerating excuses-ストレス、睡眠不足、怒りや恐れといった感情など-は、実践的な意思決定に際して、適理的に期待しうる範囲での完全なコントロールを妨げるものであったと言えるからである。したがって、道徳的に望ましくない帰結をもたらす行為を行ったとしても、そうしたexcusesが実践理性の行使を妨げていた程度には、blameされるべきではないことになる。

ここで試金石になってくるのは、Huckleberry Finのケースである。すなわち、自覚的な信念に基づけば、(合理的熟慮の結果)逃走中の奴隷であるJimをとっつかまえるべきだとなるものの、Jimとの出会いを通じて「彼も自分と変わらないんじゃないか」という漠たる感覚などをもつことで、Jimを彼の所有者に引き渡さない決定をする-この一連の営為を、どう評価するかである。Dahlが認めるとおり、これは(自覚的信念に基づくコントロールを重視する)カント主義的な合理的熟慮モデルへの重大なチャレンジを含んでおり、きちんと応答しなければならない問題である。

Dahlの応答は、Huckが特段意識せずに得た経験が、他の同時代の行為主体では適理的に期待しうる範囲を逸脱するような、すなわち誤ったmistakenかたちで学習されていた-だからこそ、Huck以外の同時代人の行為主体はその適理的に導出されるあやまちの程度にblameworthyなのだ、というものである。このようにして、カント主義的なコントロールベースの議論でもHuckのケースは対処しうるというのだ。

しかし管見の限り、この応答には2つほど問題がある。1つは、適理的に期待しうる範囲によって、様々な経験が誤った仕方で学習されていることが同定されるとすると、適理性の構想にかなりの規範性が託されていることになる。その「適理性reasonableness」の規範性は、何によって担保されるのだろうか。おそらくそれは、道徳的動機づけを直接的に構成するなんらかの実体(=徳)みたいなものではないのか。となると、カント主義的原理ではなく、もろに徳倫理モデルにコミットすることにつながるのではないのか。

もう1つは-関連する点であるが-Huckのように道徳的信念が追いついていないなかで、善き動機づけをもっている場合を実践理性の構想内で説明しようとするならば、実践理性の構想はかなり豊かなrichものになる。ところが-これは小生が当人を前にコメントしたことだが-Dahlは「そのような動機づけにdisposeされる道徳的行為を包含するほどに実践理性は広範なものである」と仮定して話を終わらせてしまう(本人は、論争的な仮定であるということは自覚している)。

ちなみにDahlはペーパーの最後の方で、Michael Smithの訴える合理性に(一定の留保を示しつつも)共感を示している。しかし、Smithの合理性構想は様々な批判を浴びており(「だって、信念と欲求のセットの一貫性だけじゃ、道徳まで含んじゃう実践理性は出てこんでしょう?」といった批判)、そのままでは使える代物ではない(少なくとも使いたいのであれば、ちゃんと擁護しなければならない)。もっともDahlもそこはわかっているようで、Smithとは違う説明を与えたいようである。小生のコメントに対する返答で彼は、実践理性を否定するHumeや道具的合理性のみを認めるHumean、さらには完全合理性からすべて引き出せるとするKantとも違う路線を模索しているようだ(アリストテレス研究者らしいと言えばらしい)。実は小生も、その4番目の可能性を模索しているという意味で、類似の苦悩を共有する。そういう意味で、いろいろと考えさせられたペーパーであった。

さて問題はその4番目の道が、徳倫理に行かずに(実践倫理だけで)済む道かどうかだ。それについて検討するには、Huckleberry Finのケースの重要性を先鋭的に指摘したNomy Arpalyの議論に目を向ける必要があると思う。次回は、Arpalyの本Unprincipled Virtue (New York: Oxford University Press, 2003).の検討を通じて、自らの立場を固めて行く足がかりをつくりたい。