哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

自律の平等(1)

2010-06-23 17:53:15 | Weblog
最近は、やるせなくなることが多い。自分が関わっている研究分野が「お手軽な」研究分野だと思われることほど、不愉快なことはない。しかし日本だと残念ながら、そういう扱いをたびたび受ける。今度『思想』の10月号か11月号に掲載される予定の論文だって、完成までにほぼ2年かかっている(構想はそれ以上に時間をかけている)。もちろん、自分の書いた論文がすべてそういう類のものではないが、しかしそれでも「お手軽な」気持ちで論文執筆に取り組んだことは一度もない。それだけは、強調しておきたい。

さてそんなどうでもいい話は置いといて、最近は高崎からの長距離通勤のため、じっくり論文が読める(これもある意味、どうでもいい話だが)。書評論文と対象させて本を読むということも可能でさえある。そんな感じで読んだ論文が、Daniel M. Hausman, "Equality of Autonomy," Ethics 119: 742-756. である。このハウスマンの論文は、Marc Fleurbaey, Fairness, Responsibility, and Welfare (New York: Oxford University Press, 2008). の書評論文である。フローベイの議論は、経済哲学者らしくテクニカルな議論が結構出てくることもあって、その重要性に比して政治哲学や倫理学では無視されがちである。本書はそのフローベイのこれまでの研究の集大成と呼ぶべきもので、政治哲学や倫理学においても等閑に付されるべきものではない。そういうこともあってハウスマンは「テクニカルな議論について行けない怠け者」用に、この書評論文を書いたとのこと(「言うよね~」って古いか)。そのこともあって、非常に整理された紹介となっている。

ハウスマンが言うように、フローベイの議論は運の平等論luck egalitarianismの一形態であるものの、運の平等論がこれまで2つの原理を区分してこなかった点を鋭く批判することが出発点となっている。その2つの原理とは、補償原理the compensation principleとリベラルな報償原理the liberal reward principleである。補償原理は、責任ある個人の特徴 - 努力や野心など - の違う者同士の福利の違いについては、何も言わない。補償原理は、結果的な福利の差がドゥオーキン的な資源の差に基づくものであってはならない、と主張する。それゆえ、環境中立化circumstance neutralizationが求められる。それに対しリベラルな報償原理は、責任ある個人の特徴に基づく帰結に対しては、干渉してはならない(たとえば市場競争に基づく帰結は個人の報償として捉えるべきだ)と主張するものである。これは必ずしも、ドゥオーキン的な意味で外的・内的資源に格差がみられても、それだけで所得移転を要求する原理ではない。端的にいかなる所得移転も、野心や努力といった責任ある個人の特徴に基づくべきではない(移転をすすめるにしても、それに抵触しないかたちでなされるべきだ)、という主張を含意する。フローベイの本の第1章とハウスマンの論文のpp. 745-746に詳しい説明がある。

問題はこの両者が、ときに両立不可能な場合があるということだ。わかりやすい論証は、p. 746で確認して欲しいが、単純に考えても、内的・外的資源格差が結果的な福利の差の帰結にならないようにすることは、責任ある個人の特徴に基づく帰結への不介入を意味しないことはわかる(もっとも、ここでは環境要因と責任ある個人の特徴が別々の変数で別個に表わせることを前提にしている)。補償原理からは、「等しい責任には等しい福利を!Equal Well-Being for Equal Responsibility」とする議論が導かれる。リベラルな報償原理からは、「環境が同一の者には同様の再分配を!Equal Treatment for Equal Circumstances」という主張が引き出される。前者は環境の格差に感応的だが、後者はそうではない(責任を問えない環境が2人の間で同一でなければ、再分配上の扱いは違っても構わないとするからだ)。

となると、どちらの原理をとるべきかという話になりがちだが、フローベイは経済学の知見を用いて、あえて妥協点を探る(Fleurbaey 2008, pp. 61-64; Hausman 2010, pp. 747-749)。フローベイは2つの妥協的解決策を提出する。1つは条件つきの平等Conditional Equalityで、もう1つは平等主義的相等性Egalitarian-Equivalenceである。両方とも反実的状況を使った妥協的解決である。前者はまず責任ある個人の特徴についての参照点となるレベル(値)を同定し、そのレベルを充たす責任の特徴を有するすべての人が同じ福利水準を得られるように、所得移転政策を進めるというものである。これは、参照点となる責任レベルについて、いかなる再分配にすべきかという議論とは別個で、すなわちそれとは無関係に設定する(それによって当の責任レベルで決まる福利水準については、介入せずに報償として認める)という点でリベラルな報償原理を充たすと言える。一方で、(上述の定式通り)人々が参照点となる責任レベルを充たすという想定で「等しい責任には等しい福利を!」が充足されることから、反実的には補償原理は充たされると言える。重要なのは、参照点となるレベルが低ければ(反実的に引き出される補償額に基づく)所得移転は大きいものになるし、レベルが高ければ小さいもの(場合によってはゼロ)になるという点だ。

後者、すなわち平等主義的相等性は、環境(内的資源)の参照点となるレベルを決めてから、その資源レベルを充たすすべての人が同じ福利水準となるように、所得移転を進めるというものである。これは仮想的に等しい環境のなかで、人々が同一の福利を得られるような所得移転を進めるという点で、反実的に「環境が同一の者には等しい再分配を!」を充たすものである(したがって、リベラルな報償原理を反実的に充たすものである)。またこの仮想的な所得移転は、責任にある個人の特徴が違う場合の福利ギャップの縮小を目的とするものではないので、補償原理に抵触するものではない。ちなみにフローベイは、この後者の解決策の方にシンパシーをみせている(前者より後者の方が望ましいとする論証はしていない)。なぜなら後者の場合、一定の福利水準を充たすために必要な資源レベルを参照点としてまず設定するという点で、人々のミニマム(基本的ニーズ)に敏感だからだ(Fleurbaey 2008, p. 64)。平等主義的相等性に基づく政策の場合には、運の平等論でよく批判されるある種の「過酷さharshness」が避けられるのではないか、と。

このフローベイの議論はみての通り、相当手の込んだ議論である。ハウスマンの書評論文は、それを正確に理解するうえで大いに役に立つ。次回は、フローベイによる従来型の運の平等論(ドゥオーキンがその代表)に対する批判について検討したい。