哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

尊厳の二つの原理から平等へ-ドゥオーキンの近著をめぐって(3)

2012-04-01 03:35:51 | Weblog
ドゥオーキンが平等な配慮(と尊重)を核とする抽象的権利によって、資源の平等構想の正当化を図ってきたことはよく知られている。ただ拙稿「ドゥオーキンは平等主義者か?」で示したように、ドゥオーキンは少なくとも明示的には「なぜ平等な配慮か?」という問いには応答しようとはしなかった(どころか、その問いから逃げてきたところがある)。Justice for Hedgehogsでは、その問いに応答しようとする試みが看取できるので、そのあたりを中心に検討してみようと思う。

ドゥオーキンが道徳的探究にあたって、道徳的概念の解釈実践が要だとする議論を展開したことは、以前のエントリーでも確認した。ではその解釈実践の目的は何か。それは、道徳的責任のあり方を規定する「よく生きることliving well」の真なる構想をみつけることである。では、(短期的・長期的)利益に還元されないような、まさに道徳的構想たるよく生きることの構想ないし倫理的規準を、われわれはいかにしてみつけることができるのか。

その際に鍵となるのは、「尊厳dignity」である。ドゥオーキンはその概念を解釈するうえで欠かせない、2つの概念、すなわち「よく生きることliving well」、もう1つは「善き生good life(をもつこと)」を区別するところからはじめる。両者は互いを欠かせないものとする倫理的理念であって、よく生きることは善き生を追求することであることからして、その点は容易に理解可能だ。善き生はよく生きる実践によってもたらされる帰結的価値であって、その逆ではない。したがって、善き生を達成できない可能性は大いにある(まさに道徳的運moral luckが介在する余地が、そこにある)。このことが意味するのは、一方で両者はそれぞれ独立した価値を有しており(もっとも両者は解釈を通じて統合的な価値のネットワークのなかに位置づけられるのだが)、他方でよく生きることは善き生に先立つかたちで道徳的重要性を有している、という点である。ドゥオーキンに言わせれば、その重要性は客観的重要性であって、「誰にとって」重要かを示すものではなく、端的に「よく生きることは重要だ」と言える類のものである(195-202)。

そのよく生きることの重要性をよりよく理解するために提起されるのが、2つの倫理的原理である。1つは「各人は自身の生と真摯に向き合わなければならない」とする自尊self-respectの原理、もう1つは「誰の者でもない自分の生を追求し、その生の成功に個人的に責任をもつ(成功したかどうかも自らがコミットする価値が規定するのだが)」という真正性authenticityの原理である。この2つの原理こそ、尊厳の構想を肉づけるものであって、言い換えれば、自尊と真正性は尊厳の充足要件となる(203-4)。ちなみに、自尊は人びとが自らの生に対してもつべき態度を表すもので、自分の性格や自らが達成したことには還元されない、まさに人としての地位の自己承認、言い換えれば総体的な自己イメージと関係している。真正性は、自分の状況にときおり決定的な反省を、自らコミットする価値や理想に照らして遂行するなかで、他の何者でもない自らの生を遂行する責任を負うことと関係している(205-10)。

重要なのは、この2つの倫理的原理が衝突するものでも妥協するものでもなく、調和的に充たされるべきもの(として解釈されるべきものとして)提起されている点である(262-3)。この価値の統合を目指すホーリズムを解釈的実践の中核に据えるドゥオーキンの姿勢は、政治的概念たる平等に関しても貫かれている。かのオークションによって充たされる羨望テストを規準とした個人的責任を擁護する議論にしても、身体障害や(市場価値のある)才能欠損といった遺伝的運genetic luckを仮想保険でカヴァーしようとする議論にしても、この2つの原理を衝突することなしに統合的に解釈しうる平等構想として位置づけている。この議論の問題点は容易にいくつかあげられるが(たとえば、自尊と真正性という2つの原理の位置づけの妥当性や、そもそもその(ジェラルド・ドッペルトがすでに挙げているものだが、根源的に無矛盾な)統合的価値を尊厳というかたちで示せるのかどうかといった疑問など)、ここではドゥオーキンの資源平等論が、本当に2つの原理を調和的に充たしうるものなのかについて、仮想保険の構想に特化するかたちで問題にしたい。

ドゥオーキンはまず仮想保険の構想が事後ex postではなく事前ex anteのアプローチであることから、何が何でも不運の結果ならば平等化に向けて補償対象とすることなしに、個人の責任を尊重するアプローチであることを確認する。それに際して、選択の帰結と才能による帰結は原理的に区別しえない点を認め、事後のアプローチの不可能性を強調している(359)。この時点で資源の平等構想が、先の2つの倫理的原理の「調和的」統合に失敗しているのではと勘ぐりたくもなるのだが、とりあえずその点は置くことにしよう。問題は、政治共同体のほとんどの人が(購入可能であれば)購入する仮想保険が、結果として強制的なものになるという点と、個人の責任と強く関連する真正性の原理は相容れないのではないか、というアーサー・リプステインの疑問に対する応答である。ドゥオーキンは仮想保険に基づく政策はパターナリズムには当たらないというかたちで、この疑問に応えようとしているのだが、このとき彼は、仮想保険によって当事者が自らの善(き生)をどう把えているかという(真正性に関与する)部分は蹂躙されないとしている。なぜなら、仮想保険は仮想状況での平均的な人の選択を想定して「当人もその保険を購入していたであろう」とする(情報が欠如しているなかでの)確率的なスキームで示される公正fairnessを表象したものであるがゆえに、当事者の判断を現実的制約のなかで最大限配慮したものとなっているからである-こうドゥオーキンは主張する(361-2)。

この議論に対し私は、仮想的選択hypothetical choiceに責任を課すことはできないという、あまりにも自明な原則が無視されているだけでなく(これはかなり致命的である)、自らが設定する確率的スキームが公正のもっともよい描写であることを明らかにしていない点で問題だと考える(他にも公正を表現する確率的スキームはあるわけで、それこそ自らの特殊な無知のヴェール状況が最善の解釈であることを示す責任は、ドゥオーキンにはある)。おそらくドゥオーキンは真の機会費用をベースとした公正が、公正に関する最善の具体的構想であると言いたいんだろうが、しかしそれが他の公正の具体的構想に比べて有する優位性を示していないことに変わりはない。そもそもかの「資源の平等」論文以降、自分の能力はわからないが、市場価値をもった能力をもつ人びとの分布はわかるという(遺伝的運向けの仮想保険のための)特殊な無知のヴェールが、なぜ公正さをよりよく表象する前提となりうるのかを全然明らかにしていないのだから。結局ドゥオーキンは、平等な配慮を核とする資源平等論の正当化には成功していないと私は考える。