哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

2010年度社会思想史学会・分科会「政治哲学の現在」雑感とコメント

2010-11-01 23:00:54 | Weblog
久しぶりにブログを更新。先月(2010年10月)の23、24日と社会思想史学会に参加。小生が世話人の1人として関わった分科会「政治哲学の現在」の雑感、および各報告に対するコメントを付したい。

まず雑感だが、テーマは分配的正義をめぐる諸論点について、各報告者が自分なりの議論を展開するというもので、3人の報告とも気合いが入った報告だったと思う。ただ、ロールズ正義論の理解さえも共有されていないなかで、比較的新しい議論を展開することの困難はやはり拭えなかった。反省点としては、文脈を共有してもらうためのしっかりとした導入が必要だったということ、そして、時間配分にもっと注意すべきだったこと、この2点があげられる(攻撃的な質問を誘発した原因はここらへんにある)。とはいえ、司会の小田川先生は各報告のあとに丁寧な解説を付していたし、それぞれの報告ともに単に既存の議論の紹介に終わっていない点などは良かったと思う。

では早速、それぞれの報告について。まず(1)上原賢治「グローバルな再分配の義務と非遵守の問題」。ポッゲに対するかなりsubtleな批判で、そもそもポッゲの議論を知らない聴衆にとっては難しかったのではないかと思う。ポッゲは世界の極度の貧困に対し、WTO等のグローバルな制度的秩序を通じてその状態を(変えられるにも関わらず)そのまま放置しているとして、先進国(の住人)はグローバルな貧者に対し不当な危害を与えていると考える。したがって、われわれは消極的義務dutyを果たしていないことになる(消極的義務の非遵守)。だからこそ、われわれは補償等の積極的責務obligationを果たさなければならない、と主張する。

それに対し上原は、ロールズが導入した理想理論ideal theoryと非理想理論non-ideal theoryの区分をふまえて、ポッゲの議論の曖昧な点をついて批判する。上原によれば、理想理論で描かれる完全な正義に支配された世界は、消極的義務が遵守されている世界である。しかしわれわれの世界はそうではないことから、リアルな状況を構成する枢要なファクターをふまえた非理想的理論レベルで問われる責務が重要になってくる。危害の同定から補償等の積極的責務は、この非理想的理論レベルの話になる。ところが、非理想的理論で問われてくるのはそれだけではない。リアルな状況を勘案する以上、他の先進国が積極的責務を遵守しないなかでの責務はどう位置づけられるのか、という「非遵守のなかの遵守」問題が突きつけられることになる。そこで検討しなければならないのが、先進国間での負担の公平性fairnessである。問題は、消極的義務を果たさないことで生じる積極的責務と、負担の公平性によって勘案される責務の度合いが必ずしも一致しないという点だ。前者も後者も非理想的理論で扱われる以上、曖昧には処せない不一致なのだが、ポッゲはこの点を曖昧にしている(追加的負担についてあまりにも簡単に議論してしまっている)-こう上原は批判する。

[コメント]私はこういう細かい議論が好きで、もっとこういう議論がいろいろなところで受け入れられるようになって欲しいと思う。ただ、理想理論と非理想理論の区分がそもそもどういうものか(とりあえずの特徴づけは以上のようなかたちではで可能だが、正確なものではない)、そしてなによりglobal justice論の文脈での当の区分のrelevanceについて議論がなかったのは問題だ。そもそも消極的義務が遵守されている状況を完全に正義が適った状態とする上原の理解は、(グローバルな)基本構造レベルで正義の政治的原理が充たされている状態と一致するのだろうか。またこの理解だと、消極的義務の存在はought implies canのテーゼと整合的なのか(義務は通常、遵守「できない」とまずいだろう)、整合的だとすればどのような意味でか、などの疑問が湧く。いずれにしても、上原の議論における理想理論と非理想理論の役割について、それぞれの特徴の説明を含めた丁寧な議論が求められるように思われる。

次に、(2)遠藤知子「デモクラシーと分配的正義」。これはかなり野心的な報告だ。遠藤は、デモクラシーの手続きや権利は、分配的正義と切り離すことはできない、内在的な関係にあると主張する。その媒介項としてあげられるのが、社会的協働social cooperationの枠組みである。なぜ分配的正義が社会的協働の枠組みを通じて、デモクラシーと内在的に結びつくのか。まず第1に、社会的協働は法制度を含む政体の運営に関わるものであり、現実の状況に照らして変容させる政治活動が前提となる点。第2に、正義に適った政治制度や政策についての論争不可避性。この2点が分配的正義とデモクラシーの内在的関係を決定づけるというのだ。そのうえで遠藤は、「正義の原理が人々に道理的に受け入れ可能でなければならないということは、既に民主的な社会を前提にしている」とまで主張する。

[コメント]非常に大胆な議論で、報告者の挑戦的姿勢には大いに共感する。だが論証的に詰めなければならない点が散見される。第1に、社会的協働を分配的正義とデモクラシーの内在的関係を切り結ぶ媒介項とみている点だが、そもそも社会的協働というのは「人々が互いに協力して社会関係を結んでいく実践」という程度の意味しかないと私は考える。この概念がはじめて使われた『正義の理論A Theory of Justice』では、自由かつ平等な人間の正義感覚を確認する程度の役割しかない。ロールズはその協働関係を統御する正義の中身を同定する際に、(数ある初期状況initial situationのなかでも)原初状態original positionが道徳的に望ましいとする議論を本格的に展開する。社会的協働はその背景に過ぎないことから、分配的正義とデモクラシーの内在的関係を決定づけるほどの積極的意味がそこに見出せるのかどうかについては疑問が残る。ただ、後期ロールズになると、公正な協働の直観的理念が正義を求める背景としてかなりのウェイトを占めてくるので、話は違ってくるのかもしれない(私は、後期ロールズのこの手の議論についてはかなりあやういと思っているので、社会的協働をめぐる遠藤と私の温度差はひょっとしたらそこにあるのかもしれない)。

第2に、正義原理の道理的な受容可能性reasonable acceptabilityが、すでに民主的な社会を前提としているとする遠藤の主張の正当性である。これは極めて強い主張で、通常reasonable acceptability条件はデモクラシーをそれだけでは正当化し得ないものとしてみなされている(それは通常、正統性legitimacyの必要条件に過ぎないとされる)。デモクラシーの価値を立証しようとするD.エストランドにしても、T.クリスティアーノにしても、この点をふまえてreasonable acceptabilityの条件を引き合いに出して議論を進めている。プラトンやミルが推奨する政治的意思決定システムがreasonable acceptabilityの条件で充分退けられるとは、私には思えない。もし退けられるというのなら、その丁寧かつ緻密な論証が求められることになるだろう。遠藤には今後、そうした論証を期待したい。


最後、(3)山下孝子「分配的正義と承認の政治」。この報告は、おそらく少し修正すればすぐにでも学会誌に掲載される論文になると(個人的には)思う。分配的正義はそもそも人間の道徳的主体としての地位の平等を前提とする議論であるが、承認の政治はむしろ文化的なあるいはエスニックな差異を前提とする議論である。N.フレイザーは当初、前者中心の議論では後者の不正義は扱えないとしてロールズをはじめとする平等主義的リベラルを批判したが、最近では(といっても2000年だが)社会的地位の対等性を重視するというかたちで、すなわち後者の問題を前者の問題に還元するかたちで、後者の問題を扱おうとしているという。このフレイザーの「転向」に問題性をみる山下は、A.ホネットの議論をふまえて、そもそもロールズ的な分配的正義が成り立つ社会関係は資本主義社会に特殊な規範であるとする視点を持ち出す。その社会関係では、労働に代表される達成(原理)に価値が置かれ、その価値前提のうえに分業や分配の正しさが問われることになる。問題は、その価値前提の狭さである。その点が垣間見えるのは、ロールズによる格差原理の正当化の仕方(報酬の格差を容認しうる条件を定めようとするやり方)である。山下はその正当化の仕方をホネットの議論に則って批判し、正義を包括的に構想しようとするのであれば、その価値前提の妥当性をも検討しなければならないのではないか、と主張する。

[コメント]完成度の高い研究報告だ。ただし、前二者の報告に比べると自分なりの主張が弱いように思う。従来の分配的正義の価値前提の妥当性をもターゲットにする正義の理論こそ、山下に展開して欲しいと私が強く願うものだ。最後の方で、FleischackerのA Short History of Distributive Justiceに触れて、交換的正義の意義まで含めた議論の(思想史的?)再検討の必要性には言及するものの、その本格的な(理論構築の)作業への意思表明は残念ながら見当たらない。政治哲学を実践するのであれば、まさにそうした作業こそが求められると言える。