哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

Moral Worth

2010-04-03 12:41:09 | Weblog
雑事に追われてなかなか更新できないでいたが、Arpalyの議論の核心に迫ってゆきたいと思う。前回では行為が合理的であるというために、必ずしも意識的な理由づけを伴う熟慮が必要不可欠というわけではない、という議論について一瞥した。われわれはそこまで意識していなくても、あるいはその時点で下しうる最善の判断と反するとしても、善き理由に適った行為を行うことがたびたびある。Huckleberry Finのケースがそのことを例証しているとすれば、それはわれわれの道徳的評価の営みにも関わってくると言える。すなわちmoral worthに関わってくると言えるのだ。

Huckのケースに入る前に、簡単な事例をみておこう。困っている人を助けるときに、困っているからという理由で助ける人と、周りからよく思われたいからという理由で助ける人と、どちらかより賞賛に値するかというとあきらかに前者であろう。どちらも道徳的に正しい行為をしていることに変わりはないが、前者は行為を道徳的に正しくせしめている特徴right-making featuresに反応してのものだが、後者はそうではない。賞賛に値するかどうかは、de reの意味の道徳的理由に反応しているかどうかに強く関わっていると言える。

さてHuckの行為は、賞賛に値するだけのmoral worthを有するだろうか。Arpalyの答は、「Huckleberryの動機をどうわれわれが再構成するかに拠る」というものである(p. 76)。たとえばHuckが周りを怒らせようとしてJimを助けたとしたら、彼の行為はそれほど賞賛に値するとは言えないだろう。この場合Huckは人種差別主義者で、たまたま善いことをしただけの少年にすぎない。だが彼の行為が賞賛に値するために、その行為が正しいとする道徳的信念をもち、それに突き動かされるかたちで行為しなければならないかというと、そうではないとArpalyは考える。もしそうでないと賞賛に値しないとなれば、Huckの行為にmoral worthなどほとんど見出せないことになる(なぜなら彼にとっての当時の状況に即した最善の判断は、Jimを助けないという判断だからだ)。Arpalyが批判するのは、この見方の狭隘さである(必ずしも否定するわけではない)。

Huckの行為が熟慮に基づくものでなくても、道徳的賞賛に値する場合があるとしたら、それはどういう場合か。Arpalyはそれは、(行為が正しい理由に基づいてなされたということにくわえ)なんらかの道徳的関心moral concernに基づいて行為したと言えるケースではないかと考える。より精確には、

ある行為主体がより賞賛に値すると言えるのは、他の条件が等しければ、その人の行為を導いた道徳的関心がより深いものである。(p. 84)

ということになる。ではその道徳的関心の深さをどう測るのかというと、(1)(道徳的)動機の強弱、(2)(心痛や罪の)感情の強弱、(3)(道徳的に重要なことの)認知の度合い、などが関わっていると言える。重要なのは、(1)についてはカントのように融通の利かない道徳的動機についてのダイハード型の見方をとらずに、たとえば違う卑俗な動機を打ち崩すに充分な程度の道徳的動機をもっていればそれなりに賞賛に値すると言えることである(pp. 89-90)。(2)と(3)については、ベタなアリストテレス主義者と違って、完璧な有徳者が遂行しうるものが道徳的理由と合致するという見方をとるわけではなく、あくまで(2)と(3)に関わるcharacterが見出せるかどうかで道徳的関心の程度の大きさが窺えるとする議論であることに注意すべきである(p. 94)。要するにArpalyは徳倫理学者だが、完璧な有徳者から指針を引き出すといったHirsthouse的議論を展開しているわけではないのだ(どちらかといえば、Slote的なsentimentalismに近い議論か?)。

[感想]この議論は抜群に面白い。小生も熟慮に基づく行為でなければ道徳的賞賛に値する(しない)と言えない、とする狭隘なモデルはおかしいと思う。とはいえ信念と欲求の組み合わせの一貫性が道具的合理性の観点から重要であるとする見方は、放棄すべきでないと考える。なぜなら合理性の概念拡張による「何でもアリ」系の話になりかねないからである。また完璧な有徳者との行為の一致ではなく実際の行為にvirtuous characterを見出すことで議論を進めると言っても、characterをどのように特徴づけるかで別の意味での狭隘さ(というか排他性)が問題になってしまうだろう。その点をふまえると、小生はどんなbackgroundをもっていても学習によって徳性を開花させることができるという意味で、認識的なレベルでの徳性を重視するモデルに惹かれるのだ。

ちなみにArpalyは、虚偽信念によって非難の程度を減じるにしても、その程度の振り分け基準として認識的合理性をあげている(p. 102)。単に間違っているのではなく、状況的に虚偽信念に苛まれる必要のないと言えるのにかたくなに間違った信念を保持しようとする場合(偏見などはその典型)、認識的に不合理だということになる。それに応じて非難に値する程度は高まってくるというわけだ。問題は、その合理性は他者との関係のなかで問われてくる道徳への関心によって測られる、という点だ。以前成田先生の科研費研で報告したときに東大大学院の早川正祐さんからご指摘いただいたのだが、ここはおそらく自己外のものが入ってくるという意味での一貫性が問われてくるのかもしれない。結局そういうかたちで、一貫性を基調とする合理性概念で道徳のあり方が特徴づけられるのかもしれない(「個人の信念と欲求のセットの整合性にとどまらないレベルでの合理性」というやや特殊なものだが)。

なんか全然まとまりのない話になってきたので、ここらへんにしておこう。後日、Arpalyの議論の続きを検討するなかで、自分の頭を整理してゆきたいと思う。