哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

自律の平等(2)

2010-07-05 02:03:20 | Weblog
フローベイの議論は運の平等論の一種ではあるが、ドゥオーキンの選択的運option luckと自然的運brute luckの区別に則って議論するものではない。むしろ、その区分に基づいて前者による影響(結果)には責任があるが、後者には責任がない(だからこそ補償対象となる)とする議論を批判するものとなっている。ドゥオーキンに言わせれば、前者は明らかに意図的なギャンブルの結果と同等だが、後者はそうではないということになる。ギャンブルに負けからといって、負けた分を補填するのはおかしいという論理がポイントである。フローベイがかみつくのは、まさにそこだ。

周知のようにドゥオーキンは仮想保険、すなわち平均的な人ならば購入する保険(補償額と掛け金のもの)に基づいて、保険の購入意思を表明できないような状況(たとえば、生まれついて障害をもつかもたないかといったリスクに備えるかどうか)をあたかも選択できるかのように仮想的に位置づける仕組みを提唱する。いわゆる、仮想保険市場hypothetical insurance marketである。それに基づいて国民皆保険を正当化するのがドゥオーキンの議論の特徴なのだが、問題は自然的運を選択的運に転換することで責任の範囲を明確にするというところ(つまりギャンブルの結果、損したら責任はギャンブルをした張本人にあるとする含意)にある。なぜなら、ギャンブルは不完全情報下での選択であるからだ。問題は不完全情報下で形成される選好自体、無知が孕んでいるために、世界の状態に対する主観確率のex anteからex postへの変化は自然的運として扱うべきものである、という点に尽きる(Fleurbaey 2008, p. 156)。

フローベイが言いたいのは、運の平等論はギャンブルのようなex anteの見地からの選択ないし(不完全情報下での)選好に責任を負わせるのではなく、ex postの見地で得られる情報に基づく選択ないし選好に責任を負わせるべきなのだ(p. 158)。となると、選好形成に際して重要な役割を果たすinformed beliefsは、ex post outcomeよりはless informativeである(p. 159n7)。そこにまさに、責任をあてがえない余地が生まれるのである。注意すべきは、ex anteだからこそのギャンブルの面白みやlotteryがfairnessにかなっているとする議論が、ex postの見地から否定されるわけではないという点だ。ex postの見地から明らかとなる運の分布をふまえて、ex anteでの選択で得られる利益(ギャンブルに際しての興奮)や、分割不可能な財をどう割り当てるかについて考慮することは、まったくもって矛盾はない(pp. 158-9)。

ドゥオーキンの仮想保険市場が問題なのは、もうすでに明らかである。仮想保険であろうとも、保険市場は人々のex anteの選好を充たすためにつくられている--そこに問題があるのだ(p. 172)。なんらかの無知(不確実性)があって、はじめて保険は成立するという基本原則を忘れてはならない。だからこそ責任が生じると考えられるのだ。しかしそもそも、生まれる前の障害や才能の不備に保険をかけるということが、その後の人生に(責任をとるという意味で)影響を与えるとする議論が、どうにも理に適った話ではないことに気付かされるだろう(p. 174)。条件付きの平等や平等主義的相等性の方が、参照点となるレベル(値)を固定化し、それまでは所得移転を進めるという点でex post transfersと相性がいい(pp. 160-162)。

[感想]フローベイのドゥオーキン批判は、まったくもって正しいと思う。重要なのは、自然的運は不完全情報しか得られないという現実のなかで、完全にはその影響を除去し得ないということなのだ。とすれば、自然的運の中立化は平等主義的含意を有すると思われる(これは、S. ハーリィの平等主義的誤謬the egalitarian fallacyに対する反批判となる p. 27)。ただし、フローベイは自然的運を選択のコントロールという点で捉えるコーエンやアーネソンらのスタンダードなアプローチや、公正な制度のもとで選好には責任をもつというスキャンロン型の議論には与さない。彼は「自律の平等」というロールズのオリジナルな議論に近いことを主張するのだが、そこに突っ込みどころがある。それについてはまた後日。