哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

尊厳の二つの原理から平等へ-ドゥオーキンの近著をめぐって(3)

2012-04-01 03:35:51 | Weblog
ドゥオーキンが平等な配慮(と尊重)を核とする抽象的権利によって、資源の平等構想の正当化を図ってきたことはよく知られている。ただ拙稿「ドゥオーキンは平等主義者か?」で示したように、ドゥオーキンは少なくとも明示的には「なぜ平等な配慮か?」という問いには応答しようとはしなかった(どころか、その問いから逃げてきたところがある)。Justice for Hedgehogsでは、その問いに応答しようとする試み . . . 本文を読む

解釈的概念としての真理-ドゥオーキンの近著をめぐって(2)

2012-03-25 04:53:40 | Weblog
ドゥオーキンの(価値の)ホーリズムと「よりよき解釈→唯一の正答」を両立させる鍵となる概念が、真理である。ドゥオーキンは、クリスピン・ライトが「決まり文句」とする、かの「雪は白いは雪が白いかつその場合に限り真である」で例示される真理のデフレ説the deflationary theory of truthを批判する。なぜならそれは、基準的概念として真理を扱う(すなわち、それに訴えれば文が真であると言 . . . 本文を読む

価値・概念・解釈-ドゥオーキンの近著をめぐって(1)

2012-03-22 01:23:14 | Weblog
単著に織り込む予定のドゥオーキンの平等論に関する議論(「ドゥオーキンは平等主義者か?」宇佐美誠・濱振一郎編著『ドゥオーキン』勁草書房、2011年所収)を、根本的な部分で変える必要はないと考えているのだが、それでも自らの哲学的基礎にまで踏み込んで法・政治哲学を展開するドゥオーキンの近著Justice for Hedgehogsを扱わなければならないとは思っている。精読を進めて行くに連れてストレスが溜 . . . 本文を読む

2010年度社会思想史学会・分科会「政治哲学の現在」雑感とコメント

2010-11-01 23:00:54 | Weblog
久しぶりにブログを更新。先月(2010年10月)の23、24日と社会思想史学会に参加。小生が世話人の1人として関わった分科会「政治哲学の現在」の雑感、および各報告に対するコメントを付したい。 まず雑感だが、テーマは分配的正義をめぐる諸論点について、各報告者が自分なりの議論を展開するというもので、3人の報告とも気合いが入った報告だったと思う。ただ、ロールズ正義論の理解さえも共有されていないなかで、 . . . 本文を読む

自律の平等(2)

2010-07-05 02:03:20 | Weblog
フローベイの議論は運の平等論の一種ではあるが、ドゥオーキンの選択的運option luckと自然的運brute luckの区別に則って議論するものではない。むしろ、その区分に基づいて前者による影響(結果)には責任があるが、後者には責任がない(だからこそ補償対象となる)とする議論を批判するものとなっている。ドゥオーキンに言わせれば、前者は明らかに意図的なギャンブルの結果と同等だが、後者はそうではない . . . 本文を読む

自律の平等(1)

2010-06-23 17:53:15 | Weblog
最近は、やるせなくなることが多い。自分が関わっている研究分野が「お手軽な」研究分野だと思われることほど、不愉快なことはない。しかし日本だと残念ながら、そういう扱いをたびたび受ける。今度『思想』の10月号か11月号に掲載される予定の論文だって、完成までにほぼ2年かかっている(構想はそれ以上に時間をかけている)。もちろん、自分の書いた論文がすべてそういう類のものではないが、しかしそれでも「お手軽な」気 . . . 本文を読む

理由以前に責任や!

2010-05-01 13:07:36 | Weblog
いまとある依頼原稿で、「機会の平等」について書いているのだが、思ったよりも苦労している。とはいえ、かなり気合いを入れて書いているので、それなりな論文にはなると信じている(というか、そう信じたい)。 機会の平等について扱うわけだから、そもそも「機会」って何だろう、という問いに対峙しなければならない。そういうわけで、以下の論文を読んだ(だいぶ前にだが)。Robert Sugden, "Opportu . . . 本文を読む

自律と道徳的責任

2010-04-11 21:07:57 | Weblog
Arpalyの本の4章5章は、自律autonomyが道徳的責任(精確には、moral praiseworthinessとblameworthiness)の必要条件ではないとする議論を展開している。通常われわれは、道徳的責任を帰す条件として当事者が自律的に行為をしたかを重んじるように思われる。それは哲学者も変わりはない。マイケル・スミスはその一人だし、他にも合理的熟慮の役割を重視するC. コースガー . . . 本文を読む

Moral Worth

2010-04-03 12:41:09 | Weblog
雑事に追われてなかなか更新できないでいたが、Arpalyの議論の核心に迫ってゆきたいと思う。前回では行為が合理的であるというために、必ずしも意識的な理由づけを伴う熟慮が必要不可欠というわけではない、という議論について一瞥した。われわれはそこまで意識していなくても、あるいはその時点で下しうる最善の判断と反するとしても、善き理由に適った行為を行うことがたびたびある。Huckleberry Finのケー . . . 本文を読む