哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

Nomy ArpalyのMichael Smith批判を出発点にして

2010-03-19 19:55:40 | Weblog
予告通り、Nomy Arpaly, Unprincipled Virtue: An Inquiry into Moral Agency (New York: Oxford University Press, 2003). についていろいろと論評を加えて行こうと思う。Arpalyは前回のブログでも述べたとおり、Huckleberry Finのケースに目を向けることの道徳心理学的重要性を強調した徳倫理学者で、私の徳倫理への「覚醒」を決定づけた(大げさか・・・)徳倫理学者の一人である(もう一人は、以前取り上げたKieran Setiya)。今回は、ArpalyによるMichael Smith批判を取り上げたい。

Michael Smithは、私が留学時代に最も影響を受けた倫理学者で、彼の議論はいまだに私にとっては出発点である。そういう意味でも、ArpalyのSmith批判はArpalyの議論を特徴づけるうえで(私にとっては)無視できないものだ。周知のようにSmithは、道徳的行為が合理的熟慮を通じた規範的判断によって導かれることを正当化しようとする倫理学者で、その骨子は明晰である。合理性はミニマムな要件として一貫性coherence、もう少し精確に言えば、信念と欲求のセットの一貫性を問うものとして認識されている。Smithはその合理性に2つほど手を加えることで、(実践)合理性から規範的判断が十全に導かれると考える。1つは、内在主義である。すなわちPはφすべきであるという信念は、必ずやPはφをする欲求をdisposeする、という考え方、もう1つは、当の信念自体、完全に情報が与えられるなかで(経験的証拠に応じたあらゆる関連する考慮に基づいて)形成されたinformed beliefsで、たとえば(内在主義を所与とすれば)φしたくないという欲求はそれに応じてφをしたいというものに変わる、という考え方である。これにより、self-deceptionやdelusion、depressionによる影響が免れた理想的な合理的主体が、それぞれ実際の行為主体の欲求形成に関わる(後者が前者の事例ではなく、後者の現実制約性を含む諸々をふまえた前者が後者にアドバイスを送るという)かたちで、規範的な欲求形成がなされ、道徳的行為が導かれるというのだ。(詳しくは邦訳のあるMichael Smith, The Moral Problem (Oxford: Blackwell, 1994), chap. 5. やEthics and the A Priori (New York: Cambridge University Press, 2004).等を参照されたい。断っておくが、上のはやや乱暴な要約で、Smithの議論はもっと周到なものだ。)

ArpalyのSmith批判は、pp. 37-46で展開されている。Arpalyが鋭いのは、Smithが一見、合理性単独で道徳的行為が十全に導かれるとする議論を展開しているようで、実はそうではないことを喝破している点だ。なぜなら、depressionやdelusionが存在していない信念であるべきだとする規範性が結局、実践的合理性を支えているからである(p. 44)。この場合、合理性が単にrichなものとしてみなされているというだけでなく、それが「虚偽信念のようなものじゃダメ」という規範性の密輸入が指摘されよう。つまりSmithの議論は合理性から規範的判断が十全に導かれるとするカント主義的アプローチの魅力を、蔑ろにしてしまう側面を持ち合わせているというのだ。

もっともArpalyは必ずしも、合理性の要件としてSmithがあげる2つを否定するわけではない(pp. 61-63)。Arpalyが問題にするのは、その2つを充たす合理的熟慮だけで道徳的行為が十全に導かれる(逆に言えば、他は不必要もしくはその邪魔になるかもしれない)とする考え方である。Arpalyは、熟慮は道徳的行為にとって必要条件ではないと考える。なぜなら、合理的信念が形成されていようとなかろうと(つまり意識ないし知識をもちあわせていようといなくとも)、善き理由に従った行為というのはよくみられるからだ。Huckleberry Finのケースは、その典型である。

重要なのはArpalyが、このことは必ずしも合理性を道徳的行為にとって不要だとするものではない、と考えている点だ。むしろArpalyは以上から、熟慮に限定する狭隘な合理性概念を問題にする。たとえばわれわれはなんとなしに、善き(あるいは優れた)理由となる原因に反応するかたちで行為をしたりする。それには偶然的、あるいは衝動的ケースもあるが、それだけでは語り尽くせない何かが秘めているケースもある。たとえば差別が横行している状況でも差別発言を聞いて、何か解せない感覚をもったりすることがある。それは「差別はいかん!」という規範的判断が伴わなくても、何か被差別者とのひょんなところでの付き合い(経験)があったりすると、差別に抗する行為へと動機づけられることがある。Arpalyはこのような、act for good (excellent) reasonsを合理的な行為と呼び、逆にact for bad reasonsを不合理な行為と呼ぶのだ(p. 51)。

すでにこの時点で、Arpalyの徳倫理学がにじみ出ているのだが、それはともかくこの合理性概念拡張路線には賛否両論あると思われる。私は単にgood or badがcharacter traitから引き出されるとする議論は、徳倫理のある種の排他性というか、「じゃあ徳のある奴が生得的でそうでない奴は永久に徳がないっていうのか?」という批判にさらされやすいと考える。私自身は、無制約的に合理性概念を拡張するのではなく、徳をepistemicな次元に引き寄せて考えればよいのでは、と生煮え的に思ってたりする。self-deceptionやdelusion, depressionが介在する信念はunreasonableだとする判断も、そういうかたちで捉えることができるのではないか、と。そうすることで、一貫性というミニマムな要件で構成される(誰にとっても受容可能な)合理性概念を保持できるし、より重要なのは、誰もが学習できるという可能性を担保し、徳の排他性は著しく弱まると考えるからだ(「経験を通じての変化」というのをうまく説明できそうだし?)。もっともその説明を支持するためには、上記の差別のケースやHuckleberry Finのケースにどう応答できるかについて、きちんと検証しなければならない。ということで次回は、ArpalyがHuckleberry Finのケースを出した当の議論に迫りたい。