哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

平等の価値再考

2009-06-23 00:13:10 | Weblog
平等の価値についての論文を書き進めているのだが、意外にも時間がかかっている。単著の要となる部分なので、やはり慎重に書き進めているためだろう。註の数がいつもより多いのが、そのことを表している。ともあれ、だらだら書いていると時間がいくらあっても足りないので、もう少しスピードアップをせねば。

そんななか読んだ論文が、Iwao Hirose, "Reconsidering the Value of Equality," Australasian Journal of Philosophy 87 (2009): 301-312. だ。Hirose氏とは、Oxford Philosophy Graduate Conferenceで小生が報告したときに、コメンテーターをしてくださったことから、お知り合いである。いまはMcGill Universityで教鞭をとってらっしゃるようで、業績も順調にあげてらっしゃる模様。Moral aggregationネタで、単著をOUPから出版予定とのこと・・・すばらしい。私もせめてAJPクラスのジャーナルに、自分のペーパーを載せたいなぁ。

それはともかく、内容に入るとしよう。著者は、目的論的平等主義telic egalitarianismのplausibleな解釈を提示しようとする。周知のようにParfitの解釈では、目的論的平等主義は、平等はそれ自体として善であって、事態の一部をなすものだ、とする立場である。この解釈に基づいてParfitは、目的論的平等主義が水準低下批判the Levelling Down Objectionに足をすくわれてしまい、人々の相対的境遇ではなく絶対的な境遇に目を向ける優先主義prioritarianismが有力な立場として示される、と主張する。事実Rawlsの格差原理は、この優先主義の極端なヴァージョンとして位置づけられる。

HiroseはこのParfitの議論に異議を唱え、目的論的平等主義の異なる解釈を提示することで、水準低下批判に苛まれない立場として、目的論的平等主義を評価することが可能だと主張する。それは、平等をそれ自体として善であるとせずに、善を作り出す性質good-making propertyとし、事態の一部ではなく、善い事態にする福利の集計方法を示唆する一つの特徴として捉えようとする。となると、事態の善さは、不平等のdisvalueを変数としないかたちで、すなわち人々の福利のみで構成される関数によって測られる。とすれば、相対的な境遇差を意味する不平等は、福利集計に際して考慮される特徴に過ぎず、したがって福利を比重化して集計した総和として、目的論的平等主義が表現されることになる(pp. 302-6)。

この最後のqualificationが重要である。福利を比重化して集計した総和として目的論的平等主義が表現されるとすると、これは優先主義と同様、水準低下批判をかわすことができるからである。というのもこの場合、福利が低ければ低いほど、追加利益に対する善さは大きくなるからである。もし水準低下を起こした場合には、福利の高い者にとってはいかなる点においてもin any respect(それが仮に平等化を引き起こすものであっても)悪い、ということになるからである。もちろん、優先主義と目的論的平等主義では、the worse offの絶対的境遇に目を向けるか、それとも福利水準でランク分けされる相対的格差に目を向けるかで異なる。しかし、福利を比重化して集計した総和として目的論的平等主義を表現すると、優先主義がなぜ平等主義と形容されるのかさえ、われわれは理解できるようになるのである。そういう意味で、両者の違いと類似性が(Parfitよりもうまく)説明できるのだ(pp. 308-9)。

[感想]間違いなく良いペーパーである。面白い。私も、平等を事態の一部とせずに、事態の善さを作り出す性質と捉える見方には、説得力があると思う(し賛成だ)。ただそうであっても、いや、そうであればなおさら、平等の価値論的身分について明らかにする必要があるだろう。なぜgood-makingなのか、と。私は平等を、仮にわれわれが存在しなくても究極的価値として存在するものとして考えている。その点をしっかり論証しなければならないと考えており、実際そうした論文をいま書いている最中である。

ただそうなると、Hirose氏とは違い(pp. 309-310)、人々の福利(の価値)から独立して平等はあり得ないとする見方をとらないことになる。これには私なりの理由がある。人々の福利の価値を織り込んで平等について論じてしまうと、平等主義は功利主義との差別化が図れなくなるからである。もちろん、それでも構わないという人は多々いるだろう。実際、Hirose氏にしてもHirose氏の師匠であるJohn Broomeにしても、功利主義を形而上学的には否定しない議論に与している(ように思われる)。しかし平等主義の平等主義たるゆえんが、福利の集計に際しての比重化にとどまるとする見方には、どうも納得しがたいのだ。

もっともこう言うからには、私はbite the bulletせにゃあかんわけだが・・・。