哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

倫理的合理主義批判~Reasons without Rationalism (2)

2008-01-08 02:38:38 | Weblog
今週の土曜に開かれる合評会のコメント準備に追われているが、そのために再度Setiya, Reasons without Rationalism (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2007). を読み返してみた。正直去年読んだ本で、最も私が影響を受けた本である。抜群に面白い。

Part Oneで、ある理由によって行為をするということを、当の行為をする理由として何かを見出そうとし、最終的にそれによって正当化できる(つまり評価的なものを見出せる)ということと同一視する議論を批判する。これはたとえばコースガードのように、そうした実践的思考の性質を合理的(な実質的動機群を有する)人間であれば志向する(とされる)自己反省に求め、そこから善い理由ないし(衝突する行為理由を調停する)決定的理由を見出そうとする議論を一刀両断する。というのも、そうした自己反省から規範的なものが導かれる保障など、どこにもないからだ。したがって仮に自己反省が意図的行為に関わっているにしても、それはあくまで欲求的信念(desire-like-belief)のなせる技であり、それをベースにした理由説明に何らかの正当化を求めることはそもそも間違いだ。Setiyaはこのことから、実践理性の規準が、実践的思考の性質から引き出されるとする議論を否定しようとする。

Part Twoで批判対象とするのが、まさにその議論、すなわち倫理的合理主義である。倫理的合理主義はいくつかのバリアントがある。最も簡単にやっつけることができるのは、認識的見地(the recognitional view)である。この立場によれば、実践理性は実際にある評価的事実(evaluative facts)を反映しており、その事実をしっかりと捉える評価的信念(evaluative beliefs)を形成することで、実践的思考の傾向性が善きものとなる、という議論である。この議論の問題点は、上記で確認したとおり、行為の理由が善いという認識なしにわれわれは理由に導かれるかたちで、それを基に端的に行為するという事実を無視している点である(p. 88)。次に構成主義(constructivism)である。構成主義の代表的論客はもちろん、コースガードである。構成主義は実践理性の規準を、実践的思考のプロセスより得られるとする立場であるが、コースガードは先にも述べたとおり、人間の意図的行為が反省的であることを通じて、そうした規準が得られるとしている。とくに合理的人間はそうした反省の行き着くところに、条件づけられない普遍的地平、まさに目的それ自体としての人間性に行き着くとし、それによってわれわれは善いとする理由を基に行為選択をすると述べる。まさにカント丸出しの議論である。しかし先にも指摘したとおり、自己反省を巻き込む意図的行為が、そうした正当化の審級を有するものとは必ずしも言えない(p. 93)。

セティヤはフェアな人だ。彼はさらにコースガードの1986年の有名な論文"Skepticism about Practical Reason." Reprinted in C. M. Korsgaard, Creating the Kingdom of Ends (New York: Cambridge University Press, 1996), ch. 11. をとりあげて、構成主義を、実践的思考の規準が当の実践的思考に従事する(合理的)能力を構成する傾向性に対応する、と主張する議論として救えるかどうかを問うてみる。セティヤの答はノーである。なぜなら、もしこうした能力が傾向性によって構成され、しかもその傾向性にこそ実践理性の規準が対応するのであれば、われわれはそうした傾向性によって常に規範的に動機づけられているという議論を採用せざるを得ない。これは内在主義として知られている立場である。しかし以前にも書いたとおり、この内在主義は極めて論争的で、決まり文句的な扱い方はできない立場である。このような立場を織り込むかたちで、われわれの実践的思考が(近似的にさえ)善いとするなんらかの議論を見出そうとするのは、土台無理がある話なのではないかーこうセティヤは考える(pp. 93-9)。

ということで、セティヤは実践理性の規準は善い傾向性によって示されるにせよ、それは究極的には実践的思考の性質ではなく、むしろその「外」にあるような性格特徴(traits of character)に由来すると結論づけるのだ。もちろん、善い傾向性と性格特徴の関係は、一対一対応だったり後者が前者に形而上学的に先立つというようなものだったりはしない。そういう意味で、従来型の徳倫理学者と違う。倫理的合理主義批判はややわら人形たたきっぽいところもあるが、こうした外在主義と親和的な徳倫理学は大いにウェルカムである。私の徳倫理学観を一新させた好著である。