哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

ひさびさ~Andrew Masonの近著を読んで

2008-06-10 01:33:33 | Weblog
本当にひさびさの更新である。小さい頃から、日記をつけることは不得手。いつも三日坊主で終わってしまう。とはいえ、まったく勉強していないというわけではない。最近、自分の専門である平等論絡みでいくつか読んだので、それを備忘録的にまとめてみよう(三日坊主どころか一日坊主にならないことを祈って・・・)。

さて、まずはAndrew Mason, Levelling the Playing Field (New York: Oxford University Press, 2006). である。本の概要は、機会の平等理念をめぐってのもので、そのもっとも説得力のあるヴァージョン(責任感応的平等論)を擁護するという目的が本の主目的。しかしその擁護の仕方は、露骨に多元主義的で、たとえば3章では、機会の公正な平等が格差原理に辞書的に優位するというロールズの議論を批判し、どちらか一方に辞書的優位性を与えるとする議論を放棄すべしなどと主張する。4章では、責任感応的平等論の実質的ヴァージョンとみなせる中立化アプローチthe neutralization approach(人々の社会環境や天賦の才能の違いを、中立化するというアプローチ)を、機会の平等理念の具体化された単一理論ないし単一原理とする見解として批判する。このとき、緩和アプローチthe mitigation approach(人々の有利性へのアクセスに悪影響を与える社会的・自然的環境の差を単に緩和するというアプローチ)を引き合いに出し、それが(中立化アプローチと違って)他の諸原理を織り込むものであることが示されている。中立化アプローチがそうした多元主義的な緩和アプローチに道を譲るのは、われわれの熟慮ある判断との適合性で劣るからであるとされる。その顕著な例が、親の子供に対する特別な配慮によって生じる事後的不平等をめぐるものである。中立化アプローチをとる場合、こうした事後的不平等に反対するか、少なくともそれを良しとしない理由a pro tanto reasonがあるとされる。メイソンは、a pro tanto reasonであっても、両親が子供に特別に利益を与えることを控えるようにする理由があるとする議論は、反直観的であるとする。

メイソンは、この自身の診断に対する可能な反論(たとえば、中立化アプローチは基本構造ないし国の政策レベルに適用されるべきもの、という反論など)をいくつか取り上げているが、正直な話、そのどれもが重要な反論ではないと私は思う。問題は中立化アプローチの間接主義的なヴァージョンを、あっさりスルーしてしまうところに尽きる(pp. 98-99)。メイソンは、中立化アプローチを実行可能性(当為は可能を含意するという原則)に反するものとみなす議論には懐疑的なのだが、その根拠として、中立化の要求を満たすことが可能な世界では、それが正義の理由となりうるとする「統制の原理」a principle of regulationをあげている。これはG. A. Cohen, "Facts and Principles," Philosophy and Public Affairs 31 (2003), pp. 211-45: 230-1, 244. での議論を念頭に置いてのものである。要は間接主義の立場からの中立化アプローチ擁護なのだが、メイソンは自身の議論(緩和アプローチ)を擁護する際にこの間接主義について一切顧慮しない。先にみたようにメイソンは、より直接的なレベルで、両親の子供への配慮の偏向性partialityを論点として、両者のアプローチを比較し緩和アプローチに軍配をあげている。

これは問題だと思う。間接主義は、功利主義をはじめ多くの理論が採用する方法である。メイソンは実際、間接主義の可能性に言及することで、中立化アプローチに対する実行可能性に基づく反論を退けている。このことに鑑みると、ますます不可解だ。間接主義をとることで単一理論、単一原理による一貫性を有する正義論が提示できるかもしれないのに、メイソンはその可能性を重視せずに、理論を多元主義的な諸原理で武装することを(しかも、それら諸原理の辞書的優位性について議論しないことを)良しとする議論を、反照的均衡(の類)によって正当化できるとしてしまうのだ。これには正直不満を覚える。反照的均衡をこういうかたちで出すのは、逃げだ。正義論を構築しようとする輩には、こういうのが多い(かつての私も含めて・・・)。

もっとも(いまの)私は、間接主義によって中立化アプローチを支持するという立場をとっていない。むしろ、間接主義によって純粋な平等主義pure egalitarianismを支持する立場をとっている。資源の希少性や利他主義の限界のみられる情況において正義が問われるからこそ、不平等の責任というものが問われてくるとみる立場こそ、私が擁護したい立場だ。この場合、責任の構想は正義の情況に完全に依存するものとして捉えられている。しかし純粋な平等主義は、そうした情況には依存しない、平等の内在的価値(非個人的価値としての内在的価値)によって裏づけられる。コーエンの言葉を使えば、純粋な平等主義こそ統制の原理を支えるものなのだ。

ともあれ、この議論を擁護するためには、メイソンや他の連中の議論をやっつけなければならない。メイソンの議論の続きはまた後日。