哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

外在主義but道徳主義~Reasons without Rationalism (1)

2007-12-25 14:44:44 | Weblog
久方ぶりの更新。やはり師走は忙しい。英文ジャーナルに投稿する原稿を完成させてからは、掃除やら年賀状書きやらで時間がとられてしまい、じっくり本が読めないでいる。とはいえ、年始早々、私がコメンテーター役の合評会があり、それに向けて準備を進めていかねばならない。休日返上だ。

その合評会準備と並行して進めているのが、外在主義だけど道徳主義って可能かを問う試み。外在主義(externalism)とは、道徳的信念が介在する道徳的判断が必ずや道徳的動機づけを導くする内在主義(internalism)を否定する議論で、最近は内在主義より有力な立場だとされている。私も、Alfred Mele, Motivation and Agency (New York: Oxford University Press, 2003), ch. 5. を読んで、内在主義を擁護することはできないと確信した。道徳的信念を有しそれを基に冷静な判断が下せる人が、一切当の道徳的行為へと動機づけられない事態は、概念的になんら問題なく措定できるからだ(メレはこれをlistlessnessと呼んでいる)。これはブリンクのアモラリストよりも強力で、一切反直観的な要素がなく、またマイケル・スミスがブリンクへの反論で使ったアナロジー(盲目な人間が色を識別できるとしても、視角経験能力を持ち合わせていることの証にはならない、という例を用いての反論)が通用しない。なぜなら、かつては道徳的判断によって道徳的行為へと動機づけられていた人間こそが、listlessnessの典型的な例としてあげられるからである。この反論を前に、内在主義を擁護することは至難の業である。

しかし一方で、外在主義の立場から道徳主義を簡単に否定してしまう路線にも、抵抗を覚える。通常は(内在主義者が見出す)規範的判断と動機づけの必然的関係があると言えるとしたら、そこにやはり何らかの規範性の源泉をみてしまうのも頷ける。もっともコースガードみたいにカント丸出しで、「反省から人間性(humanity)へ」みたいな超越論的議論を出すのは、見込み薄だと思う(し気持ち悪い)。反対に、パティキュラリズムのように、あるケースでは動機づけを惹起するという認知的状態は内在的に存在するも、それは別のケースでは動機づけを伴わないかもしれない、などという議論(Jonathan Dancy, Moral Reasons (Oxford: Blackwell, 1993), pp. 23-4.)も、中途半端に文脈主義的で受け付けない。となると、どこに議論を求めれば良いのか。

答を模索していくなかで、出会った本がKieran Setiya, Reasons without Rationalism (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2007). だ。この本を読む前は、徳倫理学(virtue ethics)に対して拒絶反応があった。道徳的理由は常に徳性質(virtuous properties)にsuperveneしているとする見方に、古代回帰的なのはもちろんのこと、妙な説教臭さを感じたからである。このセティヤという人は、こうした路線をとらない。むしろ、理由と徳は道徳を説明する際に前提とされるような形而上学的順序に組み入れられない、とする見方をとるのがセティヤの議論の特徴である。これは「徳ある人」へと人間改造していくという話(つまり徳ある人のdispositionsをすべて有していることを条件にしていくような議論)とは距離を置き、むしろ「徳ある人」を模倣(imitation)するというところに適正な実践理性の規準を見出す。したがって実践理性の規準が、行為者の性質や実践的思考(すなわち、自分の意図的行為に善き理由を見出しうるかという正当化志向的な実践的推論)から引き出されるとする(カント的)議論も、当然ながら棄却される。

私が思うにこの議論は、(セティヤもしぶしぶ認めるとおり)ヒューム的である(Ibid, p. 19.)。ヒューム主義的ではなくオリジナルのヒュームに似ているということだ。私はこの議論をベースに、sceptical moralismの可能性を見出しつつあるのだが、当分このSetiyaの議論を導きの手にして、ヒュームの世界に入り込まねばならないようだ。