哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

ヒレル・スタイナーの自由論2

2007-11-10 23:51:56 | Weblog
昨日は咳が止まらず、集中力が持続しなかった。しかもいやな報を受けて、泣きっ面にハチといったところ。レフェリーがとってもポジティヴだというのに、なんで落とすのかぁ?って感じ。なーに、独り言です。

そんなわけで、おととい予告していたヒレル・スタイナーの研究ノートが滞ってました。該当箇所は、An Essay on Rights, pp. 42-54. 自由の指標に関する様々な疑問を提示し、完全な応答を提供できないとする議論が目につくところで、分析系特有の慎重さが目につくところだ。スタイナーが自由を行為トークンレベルで考えていることは一昨日のログで確認したが、問題はそれがほぼ無限に行為を細分化していってしまうのではないか、という点だ。この指標問題にスタイナーはどう応答するのか。スタイナーの応答は、たとえばシェークスピアの劇に行くときに巻き込む外延的要素は、それぞれの要素的行為(たとえば4時にロンドンからマンチェスターまで鉄道で向かう行為等)の外延的要素を部分集合として持つ、というものである。言い換えれば、劇に行く行為に関わる全ての物理的構成要素(物理的対象物や時空的配置)は、それぞれの要素的行為の物理的構成要素の集合と同一である、と。で、行為トークンの無限に広がる可能性は、当該行為の物理的構成要素を同定することで有限的な変数に還元されて、それによって行為トークンにどのくらいの行為が含まれるかが決まるというわけだ。そこから自ずとどれくらい自由かということも決まってくるのである。

ただし行為の個別化問題は、分析哲学的に根の深い問題で、単にタイプ/トークンの区別に限定される話ではない。行為の哲学方面では、基本的行為(basic action)と非基本的行為(non-basic action)と分け、後者は前者なくしてはなしえない行為であると規定するのが常識だ。デイヴィドソンは非基本的行為を基本的行為と同一なものとみて、行為の無限的細分化を退ける。対称的にアルヴィン・ゴールドマンは、二つの行為トークンが二つの行為タイプを行為者が特定の時点で例化したものに存すると考え、実際4つの基本的行為が非基本的行為を生み出すものとみて分けている。デイヴィドソンの場合、行為の細分化が過度に制限されてしまうが、ゴールドマンの場合、行為が必要以上に細分化されてしまう危険性をはらむ。スタイナーの弟子筋に当たるイアン・カーター(Ian Carter)は、自著A Measure of Freedom (New York: Oxford University Press, 1999), ch. 7.でこの辺をかなり詳しく追っており、その両者の中間的立場を推奨する。二つ可能な立場があって、一つはゴールドマンの4つの基本的行為のうち、非基本的行為の因果的な創出(causal generation)行為のみを考慮に入れようとする立場。もう一つは、デイヴィドソン的な意味での行為を単一の行為とするも、より長期にわたる行為により大きなウェイトを与え、その重さを行為に伴う動作が引き起こす出来事の物理的次元の関数とするという立場。カーターは自由の指標を捉えるという観点から前者を推すが、スタイナーはどちらを採るのだろうか。ともあれ、行為の細分化タイプ/トークンの区別だけで話が決着しないことは、このカーターの分析からして明らかなようだ(たとえば、Carter, op. cit., pp. 186-9.)。無論、これは指標問題に応答しようとすればの話で、カーターと違ってスタイナーは指標問題だけに腐心しているわけではない。

さてスタイナーが自身のこうした議論から引き出すのが、前回予告していた自由の保存則(the Law of Conservation of Liberty)だ。すなわち、一貫性を有し、具体的にはモノの所有というかたちで体現される消極的自由が、時代や社会が変わることで増えたり減ったりしないというわけだ。これはたとえば、奴隷解放前と後でも言えなくてはならない。スタイナーは問題ないと考える。というのも、奴隷解放後ではかつての奴隷所有者たちの消極的自由は、減少したと言えるからだ(スタイナーの消極的自由は非評価的な純粋な構想であることに注意)。また行為タイプの法的制限を退けたからといって、そのトークンの法的防止の廃絶を意味するわけではない。前者によって、法的防止を施行する法的権原が再配分されただけである。したがって行為タイプの法的制限をどうこうしたところで、自由の総量は変わらないのである。このようにスタイナーは主張する(Steiner, op. cit., pp. 52-4)。

自由の保存則の妥当性については、ここでは立ち入らないことにしよう(細かい議論については、Carter, op. cit., pp. 258-64.をみられたい)。私が今書いているペーパーに関わってくる点は、この自由の保存則こそ所有(=消極的自由)権論を正義論の主眼に置くリバタリアニズムの特徴、そして歴史的権原理論としてのリバタリアニズムの特徴を分析的に浮かび上がらせるものだ、ということである。モノの所有というのは(その仮定法的な可能性も含めて?)自由のためであるというのはリバタリアンのテーゼだし、しかもその権原の正しい継承のみが(自己所有権型)リバタリアニズムの関心事である。もし自由の保存則が前提でないと、正義論としてこうした議論ができないことは目に見えている。そういう意味で、ヒレル・スタイナーは真のリバタリアンだと言えるーそう断言したい。