哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

ヒレル・スタイナーの自由論1

2007-11-08 23:50:38 | Weblog
風邪を引いてしまい、ここ2、3日、あまり研究が進んでません。とはいえ月末に投稿する予定の原稿を仕上げるべく、準備を進めなければなりません。というわけで、その原稿がらみでHillel Steiner, An Essay on Rights (Oxford: Blackwell, 1994), pp.6-54.までを再読する。当該箇所はスタイナーの自由論が展開されているところで、今回の原稿では直截的に扱うことはないにしても大事なところ。というのも原稿はむしろ、彼の権利論に注目するものなので。無論関係大ありだ。「権利が純粋に消極的な自由(pure negative freedom)の分配をどのように指令していくか」(p. 58)が、彼の権利論の解明したいことだからだ。

上記の引用からわかるように、スタイナーは消極的自由論者だ。彼は混じりっけのない消極的自由の構想を擁護する。つまりある人にとっての不自由は、その人の行為が他の人によって不可能になること、すなわち妨げられることとする自由把握を擁護する。これに対し、チャールズ・テイラーのような積極的自由論者は次のように反発するだろう。自由の構想は、行為の意義や価値に目を向けるものでなければならない、と。積極的自由論者ではなくても、妨害行為が適格なものか(eligible)どうかで、当の行為が妨げられることが不自由かそうでないかが決まるとする、純粋でない(impure)消極的自由の構想を擁護する立場もあり得る。スタイナーは、この両者ともに評価的(evaluative)な前提に自由構想が左右される点が問題だとみる。つまり自由の構想はその場合、一貫性(coherence)のあるものにはなり得ないとみる。われわれは純粋に記述的な(文化中立的、非評価的)な自由構想として、その人の行為を不可能にする妨害=不自由とする構想があり、これこそ一貫性を有する比類なき自由構想であると考える。

では、他者の妨害によって不自由となるとは、どういうことか。スタイナーは二人の行為のうち一人の行為が発生したために、もう一人の行為が不可能になるという関係性のなかに、その答えを見出そうとする。つまり行為の共存不可能性(incompossibility)に注目する。この共存不可能性という観念を理解するためには、しかし行為タイプと行為トークンの区別をしなければならない。行為トークンとは、行為の外延的説明によって同定されるもので、行為タイプは、行為の内包的説明によって同定される。厳密には後者は、前者の意味での行為によってのみ可能となるものである。例をあげれば、「シェークスピアのリチャード三世の劇を見に行く」というのは、「マンチェスターの劇場で9時に開演されるシェークスピアのリチャード三世の劇を見に行く」ということも含むし、「明日の6時開演の~」や「ロンドンの劇場で~」も排除しない。つまり前者は行為タイプで後者は行為トークンなのだ。そして、行為の共存不可能性と言った場合には、厳密には行為トークンが不可能であるということを言っているのであって、行為タイプが不可能であるということを意味しているわけではないのだ。

スタイナーの議論がおもしろいのは、ここからだ。ある行為を行えないという不自由は、外延的説明を巻き込む行為トークンでの話となることから、そうした外延的説明によって同定される物理的構成要素の少なくともどれかのコントロールが、誰かによって邪魔されたことを意味する。スタイナーはここから、その行為を行うという自由は、その行為を純然に行うための全ての構成要素の実際の、もしくは仮定法的(subjunctive)所有である、つまり「自由はモノ(things)の所有(posession)である」と言うのだ(p. 39)。物理的なモノを実際にもしくは仮定法的に所有していなければ自由がないというわけだから、無所有の状態は自由のない状態になる(ただし仮定法的な所有を考慮に入れると、どんなときにも所有はされていることになる)。いやはや、スタイナー節全開である。しかし彼はレフト・リバタリアンとして、リバタリアンが所有の正しさを問う議論をする根拠を、まさに自身の擁護する自由(と権利)の構想から分析的に引き出す点に瞠目する。イデオロギー性や歴史性に訴えない姿勢は、私が彼の議論の美徳だと思う部分である(ナイジェル・シモンズなんかの立場からすれば、それは土台不可能だと言うことになってしまうのだが)。

以上の議論のあとスタイナーは自由の保存則(the Law of Conservation of Liberty)の話をするのだが(これが論争的なのよ)、ちょっと咳き込んで大変なので、今日はこれくらいに。