哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

キース・ダウディング他「権利の構成」

2007-11-13 04:11:45 | Weblog
風邪がまだ治りきってない。来週の月曜に、TI先生のゼミで報告をしなければならないのに、準備が全然進んでない。どうしよう。

・・・と嘆いていても仕方ないので、体に鞭打って勉強している。今日はスタイナーの本といくつかの論文をさーっと読み返して、そのついでというわけではないが、Keith Dowding and Martin van Hees, "The Construction of Rights," American Political Science Review, 97 (2003): 281-293. を読む。導入部を読んでみると、「権利が正義論の基礎を構成するのではなくて、権利こそが正義論によって構成されるんだ」みたいなことを言っているので、「ああ、ありがちな議論か・・・」と思ったけれども、中身はなかなか良い論文。サーヴェイもしっかりしている。この論文は権利の共存可能性にこだわる議論に対し、極めて批判的だ。センの議論しかり、ゲーム理論的形式をとる権利論しかり、そしてスタイナーの議論しかりだ。スタイナーの権利論に対する著者らの批判に対してはあとで扱うことにして、論文の骨子だけをまず述べておこう。

著者らによると、いま列記した権利論の問題点は、権利の共存可能性問題に引きずられすぎて、権利の日常的な語り口からあまりにもかけ離れた言説へと誘ってしまう点に尽きる。その最たるものが、日常的には行為タイプレベルで捉えられる自由を行為トークンに落とし、行為の物理的構成要素を示す外延的説明を、自由の保護を意味する権利の対象の説明としてあてがうスタイナーの議論である。こうした議論に対し著者たちは、日常的な権利言説からかけ離れた議論をするのではなくて、むしろそうした権利言説を形式的言語によって分析し、分節化していくことが大事だと説く。そして引き出される3つの主張は、第一に、権利はそれを存在せしめる背景(理論、行為振る舞いを規定する信念、法等)、言ってしまえば社会的諸制度の一部であって、したがって権利と背景はいわば均衡的配置(equilibrium arrangements)のなかで定位されるべきものである。第二に、権利は行為トークンを対象とするのはなく、言論の自由といった表現にみられるように、日常的な権利言説とマッチする行為タイプレベルでの自由に目を向けるべきである。第三に、関連して、個人がどういう自由をもっているのかについてまず吟味するよりも、その個人の自由の度合いに関する判断から個人の有する自由を引き出すアプローチをとるべきである。この3番目の主張が、著者らのオリジナルな議論(本人たちが認めるとおり、発展途上のものではあるが)を導いている。それが、0から1までの間の価値を行為タイプRに割り当て、各行為トークンrが妨害されない確率を得ることで自由関数を導き出すという議論である。もちろんどのように価値を見出すかは、関数の定義の仕方によるわけで、たとえば他者に妨害されない確率の最も高い行為トークンによってその価値を決めたり、様々な確率の平均をその価値としたり、と様々である。ともあれ著者たちは、権利の共存可能性にとらわれてオール・オア・ナッシングで自由を捉えるのではなくて、ある行為タイプに関して、何らかのかたちで適切に定められる特定の閾値的価値(threshold value)を超えれば、それに対し権利があると言えるし、逆の場合は権利をもたないと言える、とする(pp. 290-291)。閾値的価値についての探求がないので何とも言えないところはあるが、これはこれでそれなりに合点の行く常識的なアプローチと言えるかもしれない。以上が要約である。

さて彼らのスタイナー批判に目を向けよう。日常的な権利言説とマッチする行為タイプベースの権利構想ではなく行為トークンレベルで自由を外延的に説明する権利構想を希求するスタイナーの姿勢に対しては、以上からわかるように当然批判的である。スタイナーの一貫性へのこだわりが、われわれの道徳的世界からまったくかけ離れた正義論を作り上げてしまっているとしたら、そのコストは高く付くと著者たちは考えている。その典型が、行為にまつわる少なくとも物理的構成要素の一つの実際の所有、もしくは仮定法的所有が他人に否定されたら、当の行為の自由はない、とするスタイナーの議論である。問題はこの〈仮定法的〉(subjunctive)要素である。これをどう解釈すれば良いのだろうか。〈仮定法的〉と言っても最低でも二つの意味があって、一つは物理的構成要素の少なくとも一つの所有を否定ないし邪魔をする他者の意志が介在するケース(wouldケース)としての解釈、もう一つは否定や邪魔の可能性をひっくるめたケース(couldケース)としての解釈がある。スタイナーの意図するところははっきりしないのだが、順当に考えれば前者のみを念頭に置いていると言える。というのも後者を入れてしまうと、自由は存在しなくなってしまうか極めて限定的なものになってしまうからだ。しかし著者たちはスタイナーの議論の場合、後者も含まざるを得ないとする。というのも物理的構成要素の〈仮定法的な〉所有をうたっている以上、その所有の否定や邪魔の可能性によっても自由は妨げられてしまうからだ(p. 287)。したがって著者らは、スタイナーの議論が示しているのは、権利の共存可能性にこだわる権利論のreductio ad absurdumであると言い放つ。

確かにスタイナーは〈仮定法的〉というフレーズをどういう意味で使っているか明らかにしていないが、私見では著者らのスタイナー批判はやや見当違いである。というのも、スタイナーの議論が成立している次元は理想的理論(ideal theory)の次元で、実際非理想的理論(non-ideal theory)の次元での議論ではないからだ。どういうことか。理想的理論の次元では、所有は他人の否定や邪魔の可能性によっても自由は妨げられるのかもしれないが(しかしカーターが言うように行為の共存可能性と自由の共存可能性は一緒ではないから、こう著者たちが言ってしまうのは実は問題だったりするのだが)、非理想的理論の次元では著者らが述べているような行為妨害確率への評価は考慮に入れざるを得なくなる。つまり議論している次元がそもそも違うのだ。したがって、著者らのフレームワークでは権利の共存可能性についてとやかく言えないというのは、そのとおりとしか言えないだろう(p. 292)。そもそも互いの行為が物理的に衝突してしまうような状況において、外在的に保護される権利のドメインがどのような正統性をもちえるのかは、理想的理論において先鋭的に問われるべきことである(これはスタイナーが"Working Rights," in M. Kramer et. al., A Debate Over Rights (Oxford: Clarendon Press, 1998), p.238. で述べているように、多くの権利論者の共通了解であろう)。逆に、はなっから権利の衝突があるというところから出発する議論は、少なくとも権利の捉え方からして「理想的理論の次元ではあり得んだろう」と思ってしまう。とはいえ、自由関数の議論はまさに非理想的理論の次元で、しっかりと考察していかねばならない問題であることに変わりはない。そういう意味でも、この論文は一読するに値すると思う。