哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

ペティットの逆襲

2009-03-19 19:06:28 | Weblog
自由論のペーパーを書いているのだが、それに織り込めるネタではないものの(字数が足りない・・・)、KramerやCarterらの消極的自由論に対する批判(というか反論)として重要な論文がある。Philip Pettitによるものである。とくにここでとりあげたいのは、彼の"How are Power and Unfreedom Related?" in C. Laborde and J. Maynor (eds.) Republicanism and Political Theory (Oxford: Blackwell, 2008). である。

Pettitは、支配がない状態を自由の本質要素とする共和主義的自由論を展開したことで知られている。彼の立場は、KramerやCarterによって批判されているのだが、その批判の骨子は、自由に関する判断として共和主義的自由は消極的自由になんら加えるところがないとする等価判断テーゼthe equivalent-judgments thesisに凝縮されている。消極的自由が連鎖的に結びつく選択機会とその確率比重によって捉えられることをふまえると、共和主義的自由が捉えようとする恣意的権力による支配がない状態は、消極的自由によっても、恣意的権力に依存することである特定の選択機会が奪われる不自由ないしその可能性として織り込める、と。たとえば、Carterは次のように主張する。

Bが「Aの意志に依存している」 - すなわち、Bが自分の目論見の実現のためにはAの許しを請わなければならないとか、Aの利益に適うように行動しなければならないとか、Aのご機嫌をとらなければならない等 - についてだが、純粋な消極的自由論者はこう指摘する。Bの妨害を受けていないという度合いは、Bが選べる選択肢(あるいは選択肢の集合)がAによって制限されるがゆえに、それに応じて減少する、と。くわえて、純粋な消極的自由論者は、Bの選択肢(あるいは選択肢の集合)を制限する度合いは、われわれがBをAに自分の目論見を実現するためには依存せざるを得ないとみるときの具合と、大ざっぱには同形のものだ。選択肢(あるいは選択肢の集合)のその手の妨害は、根本的に自由を制限するファクターとしてみなされるべきである。なぜなら、同じファクターは(AがBの意志に権力を行使しないところで行使する)まったくのありままの力を含む、不自由のあらゆる事例に介在するものであるからだ。(Ian Carter, "How are Power and Unfreedom Related?" in Laborde and Maynor 2008, p. 68)

こうした見方に対しPettitは、消極的自由論者による選択肢の個別化individuationの方法に問題性をみる。というのもCarter(やKramer)の議論に従えば、恣意的権力による脅威や脅迫があっても、当初の選択肢に変化はみられないことになるからだ。たとえば、金を出さないと殺されるという状況でも、消極的自由論者からすれば、金を出すか出さないかの自由はあることになる。もちろん、脅されている側の総体としての自由の度合いは、金を出さないという選択をしたことで消滅する可能的諸自由があることを理由に、そういう脅しを受けてない者に比べ低いとする判定が可能である - これが消極的自由論者が等価判断テーゼを主張する根拠なのだが、問題は脅威や脅迫の存在によっては、選択肢それ自体の性質や特徴が変わらないとする前提である。Pettitはここに、消極的自由論において「選択肢が非常に粗雑な基礎のうえに個別化されている」証拠を見出す。そしてより細かい、洗練された個別化論理に基づけば、脅威や脅迫によって選択肢の同一性が揺らぐことは、当然のことではないかと言うのだ(Pettit 2008, p. 121)。

これは鋭い批判である。もっともPettit自身は、洗練された個別化の論理とやらを明確に提出しているわけではない(と私は思う)。というのも彼は、John Broomeの合理性に関する議論をふまえて、個別化の合理性がわれわれの直観に基づいて審査されるようなモデルを有望視するからだ(Pettit 2008, p. 122)。この個別化の手法自体、曖昧模糊としていて間違いなく問題なのだが、それはともかくこのPettitの批判には消極的自由論者はきちんと応答しなければならない。私自身は、これに対し消極的自由論の精神に則した応答をするためには、選択肢を4次元空間のスポットと同一視するHillel Steinerの個別化手法、すなわち行為トークンに落とすやり方を採用せざるを得ないのではないか、と考えている。自由の対象となる選択肢は、物理的特徴を有するロケーション(の占有)と同じである、とすることで、選択肢の同一性が確実に担保されるわけだ(この手法については、詳しくは拙稿「正義論としてのリバタリアニズム」『法哲学年報2007』2008、230頁を参照のこと)。もっとも行為トークンにすべて落としてしまう議論の場合、行為タイプとして特定の行為および特定の自由を捉えるわれわれの直観からはかけ離れた議論になってしまう。ここにディレンマがある。このディレンマから逃れる術は、正直いまの私にはわからない。が、Steinerの議論が結構有望な議論なんじゃないか、ってことがわかってきたのは収穫である。Pettitによる最新の消極的自由論批判は、そういうことに気づかせてくれた鋭い批判であると思う。