哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

やっぱり優先主義はだめ?

2009-06-10 00:58:02 | Weblog
いま「平等の価値」というテーマで論文を書いているのだが、その原稿のおおもとは某学会の関東部会で昨年の夏に報告したペーパーである。そのときからまだ1年もたっていないのだが、すでに平等の価値をめぐる論文で重要なものがいくつか世に問われている。そのなかの1つと思われるものに、Michael Otsuka and Alex Voorhoeve, "Why It Matters That Some Are Wrose Off Than Others: An Argument against the Priority View," Philosophy and Public Affairs 37 (2009): 171-199. という論考がある。サブタイトルが示すとおり、この論文は優先主義批判の論文である。

この論文の骨子は、こうだ。経験的サーヴェイによると、個人内でworse offになる可能性に対してと、個人間で(すなわち複数の人間がいるグループ内で)worse offになる可能性に対してでは、われわれはまったく異なる道徳的配慮の仕方をする、とされる。ひどい障害を負うが治療すれば厳しいながらもなんとか生活を送っていけるくらいになる場合と、少しだけ障害を負うが、適切な治療を受ければ以前とまったく変わらない福利が得られるという場合で、リスクが半々だということがわかっている状態にあるとしよう。それに直面している一人の個人がいるとして、そのいずれかの治療を事前に選ばなければならないという状況では、両者に対し無差別であるという(つまり同じ期待効用をあてがう)調査結果が得られる。

ところが、個人間の場合(つまり複数の人間がいるグループの場合)、結果は異なる。というのも、半分の人はひどい障害を負い、半分の人は少しだけ障害を負うという状況では、多くの人は前者に治療を提供すべきだと考えるからだ(たとえ、当事者がどちらの治療に対して無差別であっても、である)。優先主義は個人内だろうが個人間だろうが、worse offを配慮することに喫緊性に訴えることから、ともにひどい障害を負ったときの治療を優先すべきだと主張する。したがって優先主義の立場では、経験的調査によって示される、個人内の場合と個人間の場合のズレ(道徳的判断のシフト)を説明できないことになる。

このシフトを自然に説明するのは、人格の別個性だとOtsuka and Voorhoeveは言う。そう仮定すると、不平等の内在的悪さよりも別個の人間の請求権的主張の相対的強度を問うやり方で、経験的調査の結果をふまえた道徳判断のシフトが十全に説明できることになる。要は、優先主義は人格の別個性が有する道徳的重要性を捉えることができない、というわけだ。

[感想]優先主義では個人内の場合と個人間の場合のズレ(シフト)が説明できないとするOtsuka and Voorhoeveの主張は正しいと思う。問題は、人格の別個性の道徳的重要性を前提にした議論に訴える部分である。人格の別個性が特段道徳的に重要なものと言えるかどうかは今日論争的で、それをきちんと説明ないし正当化するためには、やはり本格的な論証が必要となるのではないか。もっとも優先主義自体、極めて直観的に支持・援用される立場なんだが・・・。

やはり平等の価値について、真正面から論じる必要があることに変わりはないと思われる。論文がんばらないと。