先日、某研究会で自由論の報告をしたときに、自由の可測性measurabilityについて質問を受けた。後日メールでも同様の質問をいただいたのだが、要は自由の個人間比較可能性について疑う内容である。この手の質問は、経済学や経済思想を専門とする人からよく投げかけられるものだが、それには理由がある。経済学者ないし経済思想家からすると、効用の個人間比較可能性問題とだぶってくるらしい。
もう少し詳しくみよう。自由について個人間で比較する際に(たとえば、AさんはBさんよりも自由である、とかAさんはあの中で最も自由な人である、というときに)、われわれはある種の客観的な測定基準を想定していると言える。しかし経済学者は、この手の「客観的」測定基準の提出には極めて懐疑的である。というのも、ライオネル・ロビンズ以来、効用の内実に迫ることは個人の価値判断と関わるため、主観的な評価は別にして客観的に個人間でどう違うかを検討することは、社会科学者のする仕事ではないとされてきたからだ。
しかし経済学から離れてみると、このような実証主義の権化みたいな考え方はもはや通用しない。そもそもこのような事実と価値の峻別自体、経済学者以外誰もまともにはサポートしていないし、だいたい(パレート主義的考え方にあらわされている通り)個人間比較は不可能だが個人内比較は可能だとする前提自体、人格の同一性問題を真剣に考えた者からすれば、疑わしき前提以外の何物でもない。要は、価値が多元的に存在するとされる状況で、効用(厚生)への妥当なプロキシを提出しうるかが問題なのであって、価値判断を伴うからとか、客観的な価値の想定は不可能だから、という理由はナンセンス極まりない(これについては、拙稿「厚生の平等」『思想』No. 1012、2008年、を参照されたい)。
もっとも自由の個人間比較は、仮にロビンズばりの素朴な意味での効用の個人間比較不可能性を真だと想定しても、問題なく達成されうる。というのもCarterが言うように、端的に自由は効用ではないからだ(I. Carter, A Measure of Freedom (New York: Oxford University Press, 1999), p. 88)。まず、効用を主観主義的に解釈したとしても、それは多義的である。代表的なものをとってみても、効用は心的状態に還元できるとする立場もあれば、欲求(選好)充足として捉えられるとの立場もある。第2に、効用の個人間比較を行う場合、他者の心的状態や欲求(選好)充足の度合いを知る必要がある。一方、自由それ自体は客観的に捉えられるものである。この点については、自由の定量的評価を進める消極的自由論者はもとより、なんらかの「客観的」価値が自由と関わりあるとする積極的自由論者でさえ認めるところであろう。
しかし自由を単一次元で捉えて良いのか、という疑問が出てこよう。移動の自由や結社の自由といったタイプの違う自由を、同一次元で一緒くたに扱っていいのか、という問題だ。しかしこれは、Carterに言わせれば、混乱した議論である。というのも、それぞれの自由のタイプが関わる価値が違っていたり通約不可能だったりすることと、(総体としての)自由それ自体が通約不可能であることは、まったくもって違うことであるからだ(p. 90)。自由の個人間比較可能性問題は後者と関わっているのであって、前者とは関わっていない。仮に結社の自由が移動の自由よりも道徳的に重要だとしても、総体としての自由の観点からは両者は同じ自由としてカウントされる。この言明は、タイプ別の自由が関わっている事物の価値の次元と、総体としての自由それ自体で問われてくる測定基準の次元を区別すれば、なんら矛盾するところはないのだ。
もう少し詳しくみよう。自由について個人間で比較する際に(たとえば、AさんはBさんよりも自由である、とかAさんはあの中で最も自由な人である、というときに)、われわれはある種の客観的な測定基準を想定していると言える。しかし経済学者は、この手の「客観的」測定基準の提出には極めて懐疑的である。というのも、ライオネル・ロビンズ以来、効用の内実に迫ることは個人の価値判断と関わるため、主観的な評価は別にして客観的に個人間でどう違うかを検討することは、社会科学者のする仕事ではないとされてきたからだ。
しかし経済学から離れてみると、このような実証主義の権化みたいな考え方はもはや通用しない。そもそもこのような事実と価値の峻別自体、経済学者以外誰もまともにはサポートしていないし、だいたい(パレート主義的考え方にあらわされている通り)個人間比較は不可能だが個人内比較は可能だとする前提自体、人格の同一性問題を真剣に考えた者からすれば、疑わしき前提以外の何物でもない。要は、価値が多元的に存在するとされる状況で、効用(厚生)への妥当なプロキシを提出しうるかが問題なのであって、価値判断を伴うからとか、客観的な価値の想定は不可能だから、という理由はナンセンス極まりない(これについては、拙稿「厚生の平等」『思想』No. 1012、2008年、を参照されたい)。
もっとも自由の個人間比較は、仮にロビンズばりの素朴な意味での効用の個人間比較不可能性を真だと想定しても、問題なく達成されうる。というのもCarterが言うように、端的に自由は効用ではないからだ(I. Carter, A Measure of Freedom (New York: Oxford University Press, 1999), p. 88)。まず、効用を主観主義的に解釈したとしても、それは多義的である。代表的なものをとってみても、効用は心的状態に還元できるとする立場もあれば、欲求(選好)充足として捉えられるとの立場もある。第2に、効用の個人間比較を行う場合、他者の心的状態や欲求(選好)充足の度合いを知る必要がある。一方、自由それ自体は客観的に捉えられるものである。この点については、自由の定量的評価を進める消極的自由論者はもとより、なんらかの「客観的」価値が自由と関わりあるとする積極的自由論者でさえ認めるところであろう。
しかし自由を単一次元で捉えて良いのか、という疑問が出てこよう。移動の自由や結社の自由といったタイプの違う自由を、同一次元で一緒くたに扱っていいのか、という問題だ。しかしこれは、Carterに言わせれば、混乱した議論である。というのも、それぞれの自由のタイプが関わる価値が違っていたり通約不可能だったりすることと、(総体としての)自由それ自体が通約不可能であることは、まったくもって違うことであるからだ(p. 90)。自由の個人間比較可能性問題は後者と関わっているのであって、前者とは関わっていない。仮に結社の自由が移動の自由よりも道徳的に重要だとしても、総体としての自由の観点からは両者は同じ自由としてカウントされる。この言明は、タイプ別の自由が関わっている事物の価値の次元と、総体としての自由それ自体で問われてくる測定基準の次元を区別すれば、なんら矛盾するところはないのだ。