哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

積極的自由批判1--クレイマーの議論

2009-02-10 15:40:35 | Weblog
とある研究会で報告する予定の原稿「消極的自由としての自由(仮)」に取りかかる前に、精読すべき文献として以下のものがある。
Hillel Steiner, An Essay on Rights (Oxford: Blackwell, 1994).
Ian Carter, A Measure of Freedom (New York: Oxford University Press, 1999).
Matthew H. Kramer, The Quality of Freedom (New York: Oxford University Press, 2003).

前二者に関しては一通り読んだのだが、Kramerの本だけは拾い読みしかしていなかった。というわけで、(病み上がりの)いま、同書にじっくりあたっているのだが、今回は彼の積極的自由批判の箇所を検討しておきたい。

その前にまず、この三者(とくにCarterとKramer)に共通する見解を素描しておく。
1)消極的自由のみが自由である。
2)非規範的(非評価的・非価値的)自由を対象とする。
3)人間関係のなかで問題となる(社会・政治的)自由を対象とする。
4)自由の可測性measurabilityを重視する。
5)以上の分析に、自由を厳密に規定する条件を解明する概念分析の手法を用いる。

1は、(積極的自由と消極的自由の区別が妥当であるという前提のもと)自由の一理解としての積極的自由の否定を含意する。関連して2は、自由を単なる物理的事実と関連づける見方をとることを意味する。消極的自由を擁護する場合、物理的干渉や障壁がない状態が自由であるとする見方をとることになる。3は、そうした干渉や障壁に、自然的制約等の(他者の行為に起因しない)ものを含めないとする見解である。4は、自由が人や集合体(たとえば国家)にどれだけ備わっているかを測ることができる、という見解である。5は、以上の分析が、そうした自由の評価や分配を原理的に構成する(自由)構想を提起する分析とは区別される、ということを含意する。

1と2の議論のパイオニアはSteinerで、それぞれ議論を深化させたのはCarterとKramerである。3の立場をはっきりさせたのは、CarterとKramerで、4の自由の可測性問題はCarterの議論が出色である。5は分析的政治哲学の要となる分析手法で、三者ともにその伝統に属することから概念分析の採用はごく自然である。

ということで今回は、上記1の点に絞って、Kramerがなぜ積極的自由に否定的なのかを検討する(pp. 92-104)。Kramerは積極的自由を検討するにあたって、Skinnerの積極的自由批判を引き合いに出す。それは、ある目標の達成や活動が、各人の人間としての潜在的力の実現に欠かせないという前提のもと、自由は評価されるとする議論を積極的自由の教理とする考え方である。人は、価値ある一定の能力や目標、あるいは自律的に構成した目的に向かって計画や決定を行っていくことで、深遠な目的に影響を及ぼすことが可能になる--まさに自由はそうしたところで成就するのだ、と。この定式化のうち、Kramerは人間本性に訴えるような解釈(Berlinからも窺えるような解釈)は、自由の性質をめぐる議論とは切り離されるべきだとし(p. 94)、その部分を省いたうえで積極的自由の問題点に迫っていく。その問題点は、3つに大別される。

(1)「妨害がないこと」「干渉がないこと」というかたちで端的に規定される消極的自由の場合と異なり、積極的自由は様々な規定の仕方がある。たとえば、「自己達成」「自己実現」「自己表現」「自己支配」「自律」「自己信頼」「自己のコントロール」「自己決定」「自己の発展」「自己指向」「政治参加」「能動的な市民権」など様々で、それぞれが微妙に異なっている。しかもこれらの規定を前面に出せば、「自由」というタームを使わずに済むことになり、となれば自由を規定するということにならなくなる(p. 96)。

(2)より深刻な問題としては、様々な(omissionを含む)行為の妨害が、そうした説明によって支持される理想の実現のためであるならば、自由を制約するものとはならない、という受け入れがたい結論をもたらすことがあげられる。たとえばピアノの名手になる素質があるものの、ピアノの練習以外のことに気が行ってしまう人がいたとしよう。積極的自由の説明では、その人の音楽的才能を引き延ばす以外のことをさせないことが、自由に適っていることになる。これは一貫した自由概念だが、極めて奇妙(かつ危険)な議論である(pp. 96-7)。

(3)以上からもわかるように積極的自由は、自由の道徳的構想に極めて近似する。すなわち、一定の行為や事態の妨げは、その妨害が道徳的に間違ったものでないか、もしくは邪魔された行為や事態が正当なものでない場合には、自由を阻害しない、と。この説明では、干渉を不正とする道徳的権利があるか、邪魔された行為自体を控えるべき道徳的義務がない場合のみ、自由の阻害が生じるとされるのである(pp. 100-1)。この議論の最大の問題点は、自由の促進fosteringや阻害impairingということそれ自体が、独立の考慮としてのウェイトをもたなくなるという点だ。つまり、自由の地位は、実質的な道徳的理想の一側面でしかなくなるのである。したがって積極的自由の場合、自由は独立したカテゴリーとしての役割を果たさなくなるのである(pp. 102-3)。

[感想]私は、Kramerの議論のうち(3)の議論が最も決定的だと思う。(1)は、内容中立的な手続き主義的積極的自由論(John Christmanの立場)があることをふまえると弱いし、(2)はBerlinによってすでに指摘されていることである。(3)こそが、まさに致命的な点であると私は思う。これを私は、Berlinとは若干違うかたちで、「積極的自由のパラドクスthe paradox of positive liberty」として定式化できると考える。すなわち積極的自由は、自由を規定する何らかの別の価値に拠らざるを得ず、結局自由自体の規定からは離れてしまうことを運命づけられているのだ。Kramerが考える以上に、このパラドクスにはまってしまっている論者は多い。Charles TaylorやAmartya Senはその筆頭である。その辺については、Carterの議論をふまえて、私なりに(次回以降)整理してみたい。