哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

積極的自由批判2-カーターの議論(1)

2009-02-17 10:18:27 | Weblog
先日予告をしておいたCarterの議論について(本当は、先週末に書きたかったのだが、まだ体調が万全でないため今日まで先送りになってしまった)。Carterは、自由の可測性について検討した秀作、A Measure of Freedom (OUP, 1999)の著者である。彼は、特定の自由specific freedomの総量を意味する総体としての自由overall freedomの概念を擁護し、その観点から自由を他者からの物理的干渉のない状態として捉える消極的自由論を擁護する。その際に彼は、自由の積極的概念についても検討するが、その多様性や曖昧さをふまえて、まず2つのアプローチに分ける。1つは、価値基底的アプローチthe value-based approachである。行為の集合がどれだけ価値があるかによって、総体としての自由の度合いが決まるとする考え方をとる立場である。もう1つは、自己支配self-masteryを軸とする考え方である。すなわち、自由は特定の内面的制約(たとえば、洗脳や適応的選好形成)がない状態、という考え方である。Carterは、両者ともに自由の可測性という観点から退けるのだが、どういう論拠でそうするのか。

まずは、価値基底的アプローチから(Ch. 5)。価値基底的アプローチには、主として2つのヴァリアントがある。1つはSenの選好基底的アプローチthe preference-based approachで、自由行為の対象となる選択肢の価値は、当事者の選好によって決まるとする考え方である。もう1つはTaylorの議論で、選択肢の価値は客観的な意味で根本的な人生の目的と当人が据えることのできるものに依存する、というものである。後者は自己支配を軸とするアプローチに関わってくるので、主としてSenの議論を念頭に置きながら、価値基底的アプローチのなにがまずいのかについて論じよう。

Senが選好基底的アプローチを支持するにあたって、次のような例を用いる。旅行するにあたって、2つの選択肢集合があるとしよう。1つは、(動きの悪い三輪車, 片足ケンケン, ゴミの中で転がっていく)。もう1つは、(動きの良い自転車, 性能の良い車, 通常の二足歩行)。このうちどちらがより自由かというと、後者の方がより自由ということになるが、その理由はわれわれが後者の選択肢集合を選好する(つまりはそう評価する)からだ、というものだ。この議論に代表される価値基底的アプローチの問題点は、以下の通り。

(1) 価値基底的アプローチは、自由に行える特定の事柄についての価値に自由の価値を還元してしまい、自由それ自体としての価値(より精確には、非特定的価値non-specific value)を捉えられないモデルである、という点。Carterは総体としての自由を測るわれわれの動機に、自由それ自体に非特定的な価値があるという点をあげているが(Ch. 2)、それは特定の自由行為の集合に価値の変動があるとする議論とは相容れないと考える(p. 127)。もっとも選好基底的アプローチの射程は、高次の選好meta-preferencesにまで及ぶことから、多くの諸自由の価値を認めることとなり、結局は自由に内在的価値があるとする議論になる、とSenは反論する。しかし、選好基底的アプローチが自由それ自体に非特定的な価値があると言うためには、選好がすべての選択肢を無差別に織り込むモデルを考えなければならない。しかしそれは、価値のない選択肢をも、選好が織り込まねばならないことを意味することから、当初のSenの目論見からずれていってしまう(pp. 127-8)。

(2) 価値基底的アプローチは、価値のない自由行為の選択肢は、総体としての自由に貢献しないとする議論に与する(より精確には、与さざるを得ない(pp. 131-2))が、結局それはディレンマに陥ってしまう。ディレンマの1つの角は、上記主張を可能にする2つの議論のうちの1つ、すなわち、価値のない行為が可能であるということは、特定の自由でもなんでもない、とする議論から生まれるものだ。この議論は、価値がない選択行為を行えないようにすれば、不自由は解消されるとする議論となるが、これは自由自体を捉えようとする観点からすれば実に奇妙な議論である(pp. 133-4)。もう1つのディレンマの角は、上記主張を可能にするもう1つの議論、すなわち、価値のない選択行為も特定の自由ではあるが、それは総体としての自由には一切貢献しない、とする議論から生じる。たとえば、価値のない選択行為が選択肢集合に加えられても、その値はゼロになる、といった対応がそれである。しかしこの議論は、「風味のない1切れのケーキを食べても、ケーキを食べたことにはならない」と言っているのと同じである。価値のない自由にゼロを割り当てても、それが自由であることを拭えないという事実は重く受け止めなければならない。しかしこの議論では、その事実が受け止められないのだ(p. 134)。

次回は、自己支配を軸とする(Taylorの)アプローチに対する批判(Ch. 6)について検討する。