哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

マイケル・スロートの議論を再読して

2008-06-12 00:02:50 | Weblog
メイソンの議論の続きをやろうと思ったんだが、非常勤の準備で再読していたMichael Slote, Morals from Motives (New York: Oxford University Press, 2001). のひっかかるところを書こうと思う。

スロートのこの本は、いわゆる感情主義的伝統に位置づけられる徳倫理に光を当てるもので、彼の言葉を使えば行為者基底的徳倫理agent-basing virtue ethicsの擁護に議論が割かれている。行為者基底的徳倫理は、(行為基底的とは言えない)エウダイモニアを内在的善とし、フロネーシスの実践に大きなウェイトを置く新アリストレス主義とは異なり、仁愛benevolenceや人間性humanityへの愛という実際の動機に焦点を当て、その発露を支える共感sympathyや同情compassionに評価的な視点を向ける議論である。まさにヒューム的な議論と言えよう。

スロートは、この議論の方向性として二つあげている。一つは、普遍的(不偏的)仁愛universal benevolenceの議論で、もう一つはケアの倫理the ethic of caringである。スロートは後者を支持するのだが、それは「知らない人間を愛することはできない」という素朴(だが重要)な理由からである。したがって彼は、共感や愛の偏向性や時空制約性を認めるのだが、一方で人間一般に対する配慮もそうした狭い共感や愛の拡張から生じることを認める。なぜなら、いかなる人間も、自分の愛する人や友人と共通の特徴、すなわち同じようなルーツと運命を背負っていると言えるからだ(p. 90)。であれば、苦痛から助けを求める人間に、何らかの配慮の目を向けるのは徳のある、正しい振る舞いである。

スロートはその点を、ケアの倫理the ethic of caringの可能性というかたちで詳細に論じる。彼の擁護するケアの倫理は、バランスのとれたケアbalanced caringという議論である。ケアには、親密なものへのケアと人道主義的ケアの二つがある、とスロートは言う。強い共感の基盤を有するのは前者であるが、しかしスロートは、この二つのケアの間でバランスをとった上でケアを実践することを唱道する。スロートは、このバランスのとれたケアを、親密な者にどれだけの量の配慮を与えるか、という発想の集計的偏向主義aggregative partialismと対比させ、後者が奇妙な含意をもってしまう点からバランスのとれたケアを支持する。たとえば、赤の他人よりも自分の配偶者に10倍の配慮をして良いとなると、仮に赤の他人への利益が自分の配偶者の利益を上回るものである場合に、自分の配偶者の利益を度外視しても良いことになるからである(pp. 74-5)。要は、閾値的アプローチthe threshold approachを拒絶するということだ。

この議論をふまえてスロートは、感情主義者の義務論sentimentalist deontologyを展開する(pp. 79-87)。それは、ある種の義務論的な作為・不作為doing and allowingの区別の重要性は認めつつも、絶対的な義務論的制約を否定する立場を意味する。たとえば、動機が徳に適っている(つまり善きものである)場合に、犠牲を許容したり殺人を認めることもある、そういう立場である。国家や世界の存亡の危機に関わるような局面では、人道主義的ケアが優先することもあるというのがその一例である。

こうしてみると、功利主義(帰結主義)の過剰な要求demandingness問題と義務論における義務の反直観的絶対性を同時に克服する議論として、行為基底的徳倫理は評価できると見る向きも出てくるかもしれない。しかし問題は、バランスのとれたケアの「バランス」の意味である。集計的発想を退けて成立するバランスって、一体どういうものなのか。どうも直観臭がプンプンする。しかもスロートはメタ倫理的考察をせずに、この、得たいの知れないバランス感覚が、妙な構想力ないし想像力みたいなもの(愛の偏向性から人類愛へのステップを支えるもの)の介在によって身に付くものだと断じている(p. 90)。そりゃないんじゃないの、という感じ。それこそ、スロートが拠って立つハチスンやヒュームのように、構想力や想像力についてのメタ倫理的考察があるんだったらまだわかるけど・・・。

しかし日本で流行っているようなケアの倫理と違って、スロートのケアの倫理は偏向主義partialismを自認するところが良い。バランスのとれたケアは、たとえば個人的なものを政治的(国家的ないし世界的な)イシューが重大なものである場合に、前者に後者が優位することを認める議論でもある(pp, 97-8)。傷つきやすさvulnerabilityといった聞こえの良い概念を持ち出して、普遍的なケア倫理を振りかざす議論(日本でよくある類の、ね)などと比べたら、よっぽど哲学的に誠実だと思う。