哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

普遍的かつ原初的な自己所有権の確立?

2007-11-18 04:24:00 | Weblog
寒くなってきました。今日は法事(父の17回忌)で、三浦海岸の方まで行ってきました。ようやく冬らしくなってきたというべきでしょうか。

さて、スタイナーの権利論に関する報告、とうとう明日です(泣)。というわけで、今日はスタイナーの最も論争的な主張とも言うべき議論に入っていきます。それは、「普遍的かつ原初的な自己所有権はいかにして可能か」という問いに対する、スタイナーの応答だ。スタイナーは左派リバタリアンとして、自己所有権を所有権(=権利)に含める。ここで問題が生じる。親の自己所有権を認めるとすると、自分の子供(子孫)に対しても(自らの心身を働かしてつくった以上)自由裁量の所有権を認めることにならないのかだろうか。つまり、われわれの子孫の自己所有権はいかにして可能か、という問題が出ててくるのだ。これをスタイナーは、「普遍的な自己所有権のパラドクス」と呼んでいる(Steiner, An Essay on Rights, p. 242.)。

スタイナーの解決の仕方は、かなり大胆(というか奇想天外)だ。スタイナーは上記のパラドクスが拠り所にしている前提、すなわち「すべての人は原初的に、他の人の労働の産物である」とする前提に修正を加える。スタイナーは、すべての人(子供)は原初的に、他の人(両親)によって完全に所有されている心身だけを使っての労働の産物ではなく、前もって平等に分配されるべき外的資源を巻き込んでの労働である、と言うのだ。その外的資源とは、DNA鎖の複製や組み換えを含む生殖細胞系列遺伝情報(germ-line genetic information)である。つまり、こうした情報に鑑みると、祖先から伝達された遺伝の複製や組み換えの要素が常に関わってくることから、完全に両親の労働の産物であるとは言えなくなると言うわけだ(Steiner, op. cit., p. 247-8)。

スタイナーは左派リバタリアンとして、外的資源としての生殖細胞系列遺伝情報を平等に分配するシステムを念頭に置いている(プールした資源へのアクセスに際してのレント徴収というかたちをとるが・・・詳しくは、Steiner, op. cit., pp. 274-80.)。ともあれ原則的にはそうした情報を平等にシェアするということが、スタイナーの権利基底的正義構想に適ったことであるのは、間違いなかろう。ただよくわからないのが、生殖細胞系列遺伝情報を根拠に、(成人した)子孫が自らの心身に対して自己所有権を得るとするロジックである。確かにそのような情報を根拠に、すべての人が別の人の完全な所有物ではない、というところまではかろうじて言えると思う(遺伝情報への平等なシェアという条件を満たすかたちで、完全な所有が認められるケースがないとは言い切れないだろうが、まあそこは問わないでおこう)。しかし遺伝情報を根拠に言えることといえば、せいぜいそこまでである。(成人した)子孫が完全な自己所有権を有するということまで言うためには、もう一つ別の議論のステップが必要になると思う。もっとも、遺伝コードを平等にシェアするという基本線は、そうしたステップを難しくしていることは間違いないのだが・・・。

ともあれこの問題は、間違いなく自己所有権をベースにしたリバタリアンにとって、応答しなければならない問題だ。スタイナーは(多くのリバタリアンが避けて通る)この厄介な問題に応答しようとしたーそれだけでも評価されてしかるべきである。