哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

N. E. シモンズ「正義の分析的基礎」

2007-11-15 02:36:13 | Weblog
風邪はほぼ治ったが、油断は禁物。とはいえ、天気があまりにも良かったので、つい外出してしまいました。蒲田の某喫茶店は、こむずかしい論文を読むのに適している空間。集中できます。・・・というわけでそこで読んだ論文が、N. E. Simmonds, "The Analytical Foundations of Justice," Cambridge Law Journal. 54 (1995): 306-41. スタイナーの権利論批判論文で、非常に読み応えあるもの。シモンズはケンブリッジの先生なのだが、このシモンズにしろマシュー・クレイマー(Matthew H. Kramer)にしろ、少なくとも法学部に関してはオックスフォードよりケンブリッジの方が揃っているな。このスタイナー批判論文、各論部分で切れ味が鋭い。

ただシモンズのスタイナー批判の全体的骨子は、正直あまり面白くないし、賛同しかねる。要は、スタイナーの権利論は一貫性を志向する分析的な形式的議論によって支えられているように見えるが、スタイナーの意図に反して、特定の評価的・規範的立場(特定の政治理論)に立脚している、とのこと。まるでサンデルのロールズ批判みたいで面白くない(し間違っていると思う)。しかし、上述したとおり、各論では鋭い批判の連発である。ここで取り上げたい論点は二点である。

一つ目は、スタイナーによる意志説(選択説)の正当化に関するものである。スタイナーはリバタリアンであるから、それと親和的な意志説を支持するのだが、周知のように意志説には特定の権利に通常みられる放棄不可能性(unwaivability)を説明できない、という難点がある。選択説を採る代表的論客であるハートはこの点をふまえ、一部の権利には他者が服すべき義務との相関関係のないものがあることを認める。刑法に従う義務は、その典型的ケースである。ところが一貫性を重んじるスタイナーは、そうした例外に訴えずに意志説の要である権利と義務との相関性を当該ケースでも正当化できるものとする。つまり刑法のケースでは、市民ではなく(司法)当局の役人が権利保有者なのである(Steiner, An Essay on Rights, p. 66.)。

スタイナーはそれが反直観的でない想定であることを、以下のように示そうとする。まず当局の役人が刑法上の義務に従うということの放棄は、無効化(disabled)されている。ホーフェルドの用語で言うと、この無権能(disabilities)は相関的に免除(immunities)の権利を含意する。すなわち当局の役人は、免除の権利の保有者によって、放棄不可能な無権能のなかに定位されている。ポイントは、スタイナーがこのことをもって、放棄不可能な免除があるとみないところだ。スタイナーはその免除の権利の保有者は、より高い地位にある当局の役人で、その役人自身も放棄不可能な無権能のなかに定位されていて、さらに高い地位の役人に・・・という具合に、最終的に放棄可能な免除の権利を有するところに行き着くと考えている(Steiner, op. cit., pp. 64-73)。

シモンズはこの論法にかみつく。というのも、無権能と相関的な免除は、当の無権能を支配・コントロールする者にあてがう必要はないからだ。義務を変更することが無効であるということは、別に義務に服す者の免除と相関的なものとみなして過不足ないのだ。一見変に思えるかもしれないが、これがむしろホーフェルドに忠実な分析であって、むしろ無限背進は直線的ではなく二者間のスパイラル背進の様相を示すものである。となると無権能が放棄不可能な免除と相関関係にあるというもとで生じている問題とされるものは、ホーフェルドに則れば、法的ないし道徳的関係性を変更する権能から生じているものと理解できる。つまりスパイラル背進においては、放棄不可能な免除は問題ではないのだ(Simmonds, op. cit., pp. 318-20.)。なるほど、スタイナーはホーフェルドの権利分析に則っているようで、完全には則っていないわけだな(ただ、スタイナー自身がどこまでホーフェルドに忠実なのかは、はなっから微妙なんだが)。

二つ目は、スタイナーの自由および権利の共存不可能性に関する議論についてである。スタイナーはハートの法的権利論を受けて、ベンサムの用語である「保護された」自由(vested liberties)と「裸の」自由(naked liberties)に分ける。前者は他者に課される義務の保護された周域、言わば自由のドメインを確固として有する場合で、後者はそうしたドメインに二人の権利が侵入してしまっているような場合である。スタイナーは共存不可能な権利は存在しないという立場をとることから、前者のみが権利の共存可能な集合を特徴づけるもので、だからこそそうした権利は物理的な構成要素を排他的に、すなわち不可侵に所有するケースと結びつくのである。権利が所有権であるとする議論は、この推論による(Steiner, op. cit., pp. 90-3.)。問題はこの推論の前提となっているものである。シモンズによればそれは、許容可能性(permissibility)と不可侵性(inviolability)の連携である。どういうことか。

シモンズが問題にするのは、保護された自由のドメインを有する権利にしか権利としての資格を与えないという議論が、結局reductioになってしまうのではないかということである。ホーフェルドの分析とベンサム的用語法に則れば、保護された自由は不可侵の請求権によって保護され、裸の自由は許容可能な行為を意味することになる。問題は許容可能な行為によって保護された自由が妨げられたとしても、許容可能性が含意する裸の自由が義務との対をなさないことから、権利(義務)の衝突は起きない。しかしスタイナーは保護された自由を保護する請求権的権利が、裸の自由に基づく許容された(結果的)干渉によって脅かされるとし、そうした許容可能な干渉をふまえての確定的保護は共存可能な権利の体系にとって欠かせないとしている。しかしこの議論の背景にあるのは、どんな場合でも請求権のドメインが確保されていない限りは、保護された自由を行使することができるという意味での権利は成立しないという考え方である。しかしこのcannot implies ought notという前提に拠ると、干渉が許容可能か許容不可能かという区別は意味をなさなくなる。つまり干渉によって保護された自由が確保されなくなったら、義務は果たせない以上権利もないという議論になってしまう。これがスタイナーの議論がreductioである理由である(Simmonds, op. cit., pp. 328-9)。

もちろん干渉とみられるものが請求権によって裏付けられたものであると想定するならば、スタイナーの議論が成立し、その一貫性は保たれると言えよう。その意味するところは、不可侵性が許容可能性と連携をとった結果として保たれるという想定を採るということだ。しかし、その代償は大きい。なぜなら権利の分節化を通じて正義に迫るという当初の目的をふまえると、干渉とみられるようなものを前もって請求権として織り込むということは、少なくとも妥当性に欠く議論のステップの混入を意味するからである(Simmonds, op. cit., pp. 330-1.)。

この批判、どうも"The Construction of Rights," APSRで展開されたものと部分的に重なる。つまり確定的に保護された権利のみを共存可能性から正当化するという議論には、相当無理があるということなのだ。ただどうなんだろう。許容不可能な干渉が現実に数多存在するということはもちろんだが、論理的無矛盾性を体現するための舞台である、純粋に理想的理論の次元では、それは考えなくても良いのではないか(すなわち定言的な共存可能性(categorical compossibility)をみれば良いのではないか)。一貫性を求める分析的議論が成立する次元では、現実的な干渉が起こるところで問われる共存不可能性が俎上に上ることはない、なんて言えないだろうか。あくまで理想型的議論なんだから(だから先に述べたように、シモンズの非評価的議論の失敗宣告には抵抗を覚えるのである)。しかしこれに対してもシモンズは、反論を用意していて(p. 330)・・・ああ疲れた。今日はこのくらいでやめようっと。