哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

積極的自由批判3--カーターの議論(2)

2009-02-18 13:51:09 | Weblog
予告通り、自己支配を軸とする議論に対するCarterの批判をみていこう。Carterは自己支配を軸とする議論において、自己支配が確立していないケース(すなわち望ましくない内面的制約がみられるケース)として、強制、恐怖症による恐怖、オブセッション、幻惑、無知、不合理な恐怖、などが念頭にある、としている。これはどれも、真正な自己authentic selfによる特徴とは切り離されるべきものとして扱われる(pp. 149-50)。Taylorは、人間は目的志向的動物であり、その根本目的次第で行為の有意義性significanceは変わってくるとし、そうした根本目的を把握する真正な自己が1階の欲求を形成する現実の自己に反省的評価を加える人間学を擁護した(C. Taylor, Human Agency and Language: Philosophical Papers I (New York: Cambridge University Press, 1985), ch. 1)。彼はその人間学をもって、自己支配を軸とする積極的自由の概念を擁護したわけだが、問題はTaylorのこの人間学にみられる3つの論点が混在している点である(pp. 150-1)。以下、分節化しよう。

(1) 価値基底的アプローチの妥当性
自由は単なる行為の選択可能性ではなく、有意義な行為の選択可能性に存する。したがって、行為が有意義であればあるほど、その行為の選択可能性は行為主体の自由を増加させるのだ。

(2) 主観的に同定される内面的制約を支持する議論
個人の自由は、単に外在的制約によってのみ減少するわけではない。むしろ、あまり有意義でない選択行為を追求してしまい、それより有意義な選択行為を蔑ろにしてしまうことで、減少するのだ。そのとき、真正な自己は、あまり有意義でない選択行為を選好(欲求)しない2階の欲求を有しており、あまり有意義でない行為の追求を当人の根本目的としないとする強い評価strong evaluationを行うのだ。

(3) 客観的に同定される内面的制約を支持する議論
内面的障碍は、当事者が(2)のように同定するときだけに限らるのは危険である。というのも当事者は、自分の根本目的が実際にはどういうものかについて見誤る可能性があるからだ。

このTaylorの議論を構成する3つの論点について、まず(1)→(2)、次に(2)→(3)の道筋について順次考えたい。まず(1)→(2)についてだが、これはTaylorの議論にとっては不可欠な部分である。というのも、彼の議論は行為者が単に選ばなかった行為と内面的制約のせいで選べなかった行為(その行為を選択する自由がなかった)場合とを区別する必要があるが、そのためには内面的制約を区分する基準が必要になってくる。その基準を提供する(つまり、望ましい内面的制約と望ましくない内面的制約を区分する基準を提供する)のは、「有意義性」という観念である。だがこの観念は結局、特定の選択行為の価値に自由の価値が寄生するという価値基底的アプローチに行き着くことから、それが抱える問題点(昨日のブログ記事を参照)を丸抱えすることになる(pp. 153-6)。

次に(2)→(3)の道筋についてだが、Taylorは明らかに、(2)での道具的合理性と(3)での目的評価に関わる合理性とを結びつけている。しかしこれは大きなジャンプである。とくに目的評価に関わる(客観的)合理性に照らして自由を評価する場合、特定の行為をさせるようにし向ける(介入する、あるいは外在的制約を設ける)方が、自由は増加するという議論になる。というのも、目的評価に関わる(客観的)合理性によってお墨付きを得た根本目的でなければ、真正の自己がいくら1階の欲求を反省的に同定しようとも価値ある自由としてはみなされない可能性があるからだ。結局は、(3)が(2)に取って代わることになり、(3)の合理性基準に照らして(2)の反省的同一化の正誤が評価されることになるのだ。こうして自己支配を軸にした議論から、自己支配の重要なモメントが消えていくことになる(pp. 156-62)。

[感想]私は、Carterが言うことにほぼ賛成だ。結局、自己支配を軸にした積極的自由論は、総体としての自由を増加させるには、価値なき特定の行為を妨げれば良いとするパラドキシカルな議論に与さざるを得なくなるからだ。Carterはその点を、非常に丁寧に論証している。一方私は、Carterと違って自由に内在的価値(より精確には、非特定的価値)があるとは考えていないし、それがないと総体としての自由を構想する動機がなくなるとも思っていない。そこは、自由基底的な正義構想を支持するCarter(参照Ch. 3)と、平等主義者の私との立場の違いを示す部分でもある。