哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

クリストマンの積極的自由擁護論

2009-02-27 11:23:00 | Weblog
積極的自由批判ばかりみてきたので、まともな積極的自由擁護論を一瞥しておく必要もあると考え、John Christmanの論文("Liberalism and Individual Positive Freedom," Ethics 101 (1991): 343-59; "Saving Positive Freedom," Political Theory 33 (2005): 79-88.)を検討しようと思う。

Christmanは、"Saving Positive Freedom."で、Eric Nelsonによる積極的自由批判に応答する。Nelsonは積極的自由のいかなる説明も、(なんらかの)制約の欠如としての消極的自由に基づく説明に還元できる、と主張する。たとえば積極的自由論者であるT. H. Greenでさえ、「自己実現としての自由は、その人の可能な達成に立ちはだかる欲望や衝動の欠如」に結実し、それによって「自分自身の目的を見出す」という認識をもっていたとする(E. Nelson, "Liberty: One Concept Too Many?" Political Theory 33 (2005): 58-78, pp. 61-2.)。

これに対しChristmanは、まずNelsonの議論の論理的難点をつく。それは、自分自身の目的を見出すことがGreenにとっての自由であって、単にそれを阻害する制約を取り除くことは、そのための必要な手段に過ぎず、したがって制約の欠如は自由それ自体にとっての充分条件とはならない、という点である(p. 82)。つまりNelsonの議論は、自由が単なる障碍の欠如以上のものであることを逆に示してしまっているのだ、と(p. 83)。

さらにChristmanがみるところ、Nelsonの議論には、概念conceptと構想conceptionの区別の混同が見受けられる。確かに積極的自由の批判者がみるように、自由と価値ある生の追求とを同一視することは、自己実現の名の下に自由を価値ある生の可能性についての明らかに狭い説明に落とすことに等しい。しかしこれは、何が自由を意味するか、ということをめぐってのものではなく、われわれ(あるいは社会)が自由をそうした仕方で促進すべきかどうか、という点をめぐっての議論である(p. 83)。Christmanに言わせれば、制約が意味するところをきっちりと把握するためには、こうした構想ベースの部分、すなわち人間が追求する行為タイプを前提としなければならず、その逆ではない。そもそも、価値中立的な自由の説明は、様々な理念の概念枠組みにおけるそうした行為タイプの可能な範囲を許容するものなのだ(p. 84)。自由は、一定の政治的生活の様式を達成する、理想的な類の行為者性と深い関わりがあり、その側面ぬきにしては自由など語れない--つまり、単なる概念をめぐる論争として自由を扱うことはできない、というわけだ(pp. 85-6)。

ではChristman自身は、どのような積極的自由論を展開するのだろうか。"Liberalism and Individual Positive Freedom."で彼は、手続き的なprocedural(内容中立的なcontent-neutral)積極的自由の構想を提出しようとする。積極的自由においては自己支配や自律が重要になるわけだが、その条件としてChristmanは選好の構造structureや内容contentではなく、選好形成preference formationにかかっていると考える。つまりいかなる選好の変化も、自身の欲求に対する反省や抵抗に基づかなければ、自律的とは言えない、というわけだ(p. 346)。

もう少し詳しくみると、重要な部分はこうだ。選好変化を引き起こす内省に伴う判断は、当人にとって最小限の意味で合理的なものでなければならない(p. 347)。その最小限の合理性を担保するのは、内省を伴う熟慮が無矛盾性や論理的推論の誤りを包含しない、という条件だ。欲求はそうした条件で理由を構成し、それが自由と結びつくとみなすのが積極的自由論である。重要なのは、この条件は信念の真理や(実在する)価値に対する感応性といった認識的条件を含まない、主観的条件であるという点である(pp. 349-51)。

なぜ認識的条件を含めるべきではないのか。理由は2つある。1つは、どのくらいの証拠が集められればその(信念の信頼性を保証する)閾値をクリアし、それにより当該行為が自由になるかが不分明(決定不能)である、ということだ(p. 356)。もう1つは、仮に実在する価値に対応するなんらかの規準が自由かどうかを決めるとしたら、そうした価値規準に基づかない行為は自由ではないとなってしまうが、それは自由に関するわれわれの判断とは明らかにかけ離れている、という点だ(p. 357)。

[感想]まずChristmanのNelson批判については、かなり部分で共感を覚える。というのも、Nelsonの議論は概念と構想の区別をふまえておらず、したがって自由の意味とその規範的位置づけについて混乱が見受けられるからである。対照的にChristmanの議論は、積極的自由が構想レベルで、すなわち政治・道徳理論上で提起されるものであって、概念をめぐる論争に位置づけられるものではないとするもので、そういう意味では概念と構想の区別を重視するものとなっている。私も積極的自由に類するものが、構想レベルで提起されるものであることを否定しない(しかしそれが、自由という名の下に議論されるべきものかどうかは疑わしいとは思っている)。

問題は、彼の積極的自由の構想の妥当性である。彼の手続き的な積極的自由の構想は、客観的な認識的条件については織り込まない、主観的条件をベースにしたものである。しかし、この議論が純粋に手続き的かというと、そうではない。というのも、選好形成を自律的にするなんらかのファクター、内省によって得られるファクターそれ自体、やはり選好(欲求)の内容に関わるものでなければならないからだ。たとえば変化する前の選好が自律的かどうかは、選好の変化以前になんらかのファクターによって保証されなければならないが、それ自体、選好(欲求)の特定の中身に関わるものであるはずだ。類似の批判は、Carter, A Measure of Freedom, pp. 155-6.にある。