団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

小説タウンハウス 31 新井用水 300年間建碑され続けた偉業 淡山疎水番外編  

2022-06-17 06:08:50 | 日記
 地図はいなみ野台地を潤す水の路淡河川山田川疎水(東播用水土地改良区作成)になります。

 ⑩は練部屋分水所、左の分岐点が岩岡支線がわかれる老ノ口分水所になります。老ノ口分水所は

 小説タウンハウス 24 宮ヶ谷調整池-小束野開拓-老ノ口分水所 淡河川山田川疎水13(2021.1.29)をご覧ください。

 新井用水は地図の左端にはみ出してあります。番外編と言うより枠外編となります。

  

 新井用水は地図では新井水路と書かれていなす。水路は青色で強調しています。赤い線は新井用水と交差する川です。上が曇川

下が喜瀬川です.。加古川の取水口部分が欠けいいますがほぼ全長になります。終点は播磨町の大池になります。

   

 淡河川山田川疎水と新井用水を繋ぐキーワードはサイフォンになります。写真左は播磨町郷土資料館にある大仲埋樋の模型で

す。この模型では連通管である事が一目でわかりますが何故かサイフォンに誤訳?されてしまいました。原因は御坂サイフォン?

 小説タウンハウス 13 御坂サイフォンと御坂神社 淡河川山田川疎水(2018.9.14)をご覧ください。

       新井用水(しんゆようすい)「水のめぐみ」

  

 新井(しんゆ)用水は加古川市八幡町加古川大堰から播磨町古宮までの農地へ水を送る約14kmの水路です。

 新井用水の歴史は古く、1656年播磨町古宮の大庄屋今里傳兵衛が中心となって計画されのべ16万4千人の努力により開通

しました。

 途中には河川を渡るサイホンや岩盤を削った水路などがあり、当時としては、高度な土木技術が使われています。また、全線を

通じて水路の高低差がほとんどなく曲がりなどを巧みに利用して水を通しています。開通後350年以上の長きにわたり、何度も

改修を重ねながら、現在でも地域の農業用水の要として豊かな水のめぐみを与え続けています。

 また、新井用水はホタルやカワセミなど加古川のめぐみを街並みに送る貴重な自然空間です。新井用水を上流から下流まで歩け

ば約半日、季節毎ゆっくりめぐれば約350年の水のめぐみを体験できるうるおい空間です。

                     新井用水に親しむ会・新井水利組合連合会  平成21年5月

①新井用水と五ケ井 昭和63年建設の加古川大堰、加古川のめぐみを送る14kmの出発点です。

②曇川と新井用水 曇川の由来と川を横断するサイホン技術を紹介する。

③新井緑道 地形を活用した水路が四季彩かわる緑道沿いを流れる。

④昭和の歴史 用水に架かる軌道や橋の名前など80年前の近代歴史が遺る。

⑤ため池と水路 新井用水は多くのため池をうるおす。これは地形を巧みに利用した新井用水の特徴です。

⑥傳兵衛の工夫 用水全線14km上下流の落差は僅か7m、ここに水をながす傳兵衛の工夫が随所に遺る。

⑦大中埋樋(うずみび) 50年前は農地ばかりの景色、加古川からの水はここ喜瀬川を越え大池へ流れる。

⑧播磨町大池 新井用水の終点、水鳥などの楽園、近くには今里傳伝兵の墓碑や公徳碑がある。

    今回のは①②⑦⑧になります。


       ①新井用水と五ケ井 (加古川大堰)

  

 新井用水は五ケ井用水の洗堰を利用して造られました。加古川大堰は、加古川下流域の治水と水需要に対応するため400億円

の工費と9年の歳月をかけて昭和63年に完成しました。現在はここが取水口となります。

   

 現在の水路起点です。階段側が新井用水です。


       ②曇川と新井用水

  

 新井用水路は、加古川市から播磨町を流れる間に4つの川(上流から草谷川、曇川、白ヶ池、喜瀬川)を横断します。ここ曇川

は最初の工事で川の上を横断する木製の筧樋という方法でした。しかしその後に喜瀬川と同じ埋樋により、川の下を横断する方法

に変更されたそうです。江戸時代の初めの工事でもこうした農業土木技術により川を横断する水を下流に流すことが出来ました。

   

 サイホン前には徐塵機があります。川は深いので最初は筧樋であったことが理解できます。


       ⑦大中埋樋

  

 フェンスに囲まれた見られない機械がありますが、ここから新井用水が喜瀬川を潜っています。用水路が川の下を通るためには

逆サイホンという技術が用いられています。

 建設当初喜瀬川のサイホン菅は、松材が利用され「埋樋」と呼ばれていました。天保元年(1830年)に石造りに変わり、昭

和32~33年頃に鉄筋コンクリート造りになり現在に至ってます。

  

 埋樋部分の拡大です。

  

       史跡 新井水道の大中埋樋

 江戸時代の初期までの当地域一帯の田は、雨水にたまる田がほとんどで旱ばつの被害を度々うけていました。

 古宮組の大庄屋今里傳伝兵重幸(1610~1059)は、この旱ばつの飢饉を救うため承応3年(1654)12月近隣

22ヵ村(古宮村を加えて23ヵ村)の庄屋と相談して、藩主に願い出て明暦2年3月に新井水道が完成しました。

 新井水道は、加古川の水を下西条平松(加古川市神野町)の五ヵ井洗堰から分水し、古宮(播磨町)の大池まで13km余り、

動員された人夫はのべ16万4千人という大工事でした。特にここ喜瀬川の下を埋樋(逆サイフォン式暗きょ)を用いて送水する

工法は、きわめて高度な技術を要したことでしょう。

 最初は松材を使った樋でしたが、後に石に変えられ、現在はコンクリート製になっています。

                              平成元年三月  播磨町教育委員会

    江戸時代から伏越、吹上樋と呼ばれて来た技術は明治になって何故かサイホンと誤訳?されてしまいました。

   水が通るのはサイフォンの原理ではなく連通管の原理であり、良心の呵責から逆サイホンの言葉が生まれたと

   も思えます。前出の「御坂サイフォンと御坂神社」をご覧ください。

   

 徐塵機の後ろの堤防が喜瀬川となります。水面は高さは同じ程度ですので川をくぐった川の立体交差となります。


       ⑧播磨町大池 (今里傳兵衛公徳碑)

  

 さくら並木の後ろが(新井)大池となります。大池の東側部分が古宮水利組合によって埋め立てられて公園として開放されてい

ます。一角に今里傳兵衛にかかる石碑が集められ先人の偉業に感謝し、理想を未来に伝えるミニテーマパークになっています。池

の埋立は市街化に伴う水田の減少によるものでしょうが住宅建設業者に売り渡すのではなく公園化し先人の偉業を伝える行為に

は、今里傳兵衛の理想が今も人々の間に生きていることがわかります。

    小説タウンハウス 28 喰ヶ池と青池 消えた溜池番外編(2021.6.25)をご覧ください。

 播磨町は全町が平坦地、町域の9割が市街化区域で加古川市に隣接し神戸市・姫路市にも通勤圏として市街化が進み隣接する稲

美町・明石市と共に兵庫県で唯一の人口増加地域となっています。(泉房雄暴言明石市長が自分の子育て支援政策により兵庫県下

唯一の人口増加と吹聴しているのは正確ではありません)町域の水田も僅かです。このミニテーマパークが最後の集大成かもし

れません。

  

       今里傳兵衛と新井

 今里傳兵は古宮組19か村の大庄屋で古宮村の庄屋も兼ねていました。承応3(1654)年、播磨国(現播磨町)のあたりは

春から真夏にかけほとんど雨がふぃらず、池の水も干しあがるほどでした。

 そのため、田植えはしたものの水はなく、田んぼは乾いてひび割れし、稲はしおれて次々と枯れていきました。わずかにできた

お米は大半がくず米で、来年の種もみなかったため、江戸時代の中でこの年だけは姫路藩も年貢の取り立てをやめています。

 ところが別府川と加古川に挟まれた隣の地域では、田んぼに稲穂が実り、お米が収穫されていました。この現状を見た傳兵衛

は、五ケ井の水を分けてもらい田畑に水を引くという計画を立て、水を利用する23か村の庄屋たちを集めました。傳兵衛の絵図

による具体的な説明は、庄屋たちの心を突き動かし、全員が陳情書に署名しました。陳情に際し傳兵衛は「もし新溝で水が流れな

い時は、家族もろとも極重の罪科をこうむっても、決してうらみや悔いは抱きません」と早期着工を強く要望しています。

 藩主榊原忠次は、その綿密な計画と身命をかけた熱意に感銘し、直ちに設計をやらせ、新年早々藩の事業として着工させまし

た。藩内から延べ16万4千人(8千人とも)の人足が協力しわずか1年余りで通水を成しとげました。

 開通のお礼に参上したとき、藩主忠次は、その功績をたたえ傳兵衛の願いを聞きました。その際「大変な恩恵をいただきながら

ほしいものなど毛頭ございません。何とぞ新溝の永代異変なく存続していくよう、それだけを心から願っています」と答えていま

す。

 傳兵衛は、通水して3年後の万治2(1659)年11月12日(旧暦)に亡くなり、50歳ぐらいだったといわれています。

お墓はすぐ近くの古宮薬師堂の墓地にあります。

  

 町内各地に有った石碑を新井用水ゆかりの地に集めて先人の偉業を伝えています。瀬戸内海気候に属し雨の少ないこの地方では

旱魃との闘いであり多くの用水路やため池が造られました。それぞれに先人に感謝する石碑がありますが300年にわたり石碑が

次々と建立され続けたことに感動を覚えます。

  

①記 功 碑  明治41(1908)年 水利慣行改善事業に尽くした坂田啓太郎の功績をたたえ建立

②玉 垣 門  安政 5(1858)年 今里傳兵衛の二百回忌法要を記念し建立

③公 徳 碑  昭和59(1984)年 今里傳兵衛の功績をたたえ建立

④改修記念碑  昭和36(1961)年 新井の改修工事の竣工を記念し建立

⑤記 念 碑  昭和 3(1927)年 今里傳兵衛の従五位追贈の栄誉を記念し当時の阿閇村が建立

⑥新井記略碑  享保 5(1720)年 今里傳兵衛の功績をたたえ事業の経緯を要約し建立(播磨町指定文化財)

⑦石灯籠(左) 宝暦13(1763)年 新井郷の人々が百回忌法要を記念して建立

⑧石灯籠(右) 昭和 3(1927)年 今里傳兵衛16代子孫今里粂太郎が傳兵衛の従五位追贈の栄誉を記念し建立


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