耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“今こそ釈迦にかえれ”と説いた弁護士・遠藤誠

2007-05-18 15:21:25 | Weblog
 去る5月16日、「新発見の7作品を展示 平沢元死刑囚の絵画公開」との報道がなされた。(参照:http://www.sanyo.oni.co.jp/newsk/2007/05/16/20070516010003621-p.html
 
 このところ“帝銀事件”を耳にすることは絶えてなかったが、先日“731部隊”(5月2日)について書いていたところ、この事件発生当初は「細菌部隊」との関連が疑われていたことを知った。(参照:「帝銀事件」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 そこで「帝銀事件」を改めてみてみようと検索すると「帝銀事件ホームページ」(http://www.gasho.net/teigin-case/index.htm)に辿りつき、この事件の輪郭を知ることができ、事件の異様さを再認識させられた次第である。

 ところで、この「帝銀事件ホームページ」に本事件の再審請求主任弁護人・遠藤誠弁護士に関するリンクが3件貼られている。そのひとつは平沢元死刑囚の養子・平沢武彦氏による「追悼・遠藤誠弁護士」だが、文中にも紹介されているように、遠藤弁護士はきわめて特異な人物だった。その一端を「追悼」文から引用する。

 <…遠藤弁護士は、日本弁護士会において、稀有な異端の人物だった。
 権力の不正に虐げられた人には、無償、手弁当で熱心な弁護活動に当たった。帝銀事件でも鑑定などの裁判費用のすべてを負担。誰もが手をつけない事件にも、その役目にあたった。
 「暴力団対策法案」の際にも、…山口組からは、12億余りの主任弁護費用を出すと言われたというが、それを拒否し、無償の闘いにのぞんだ。同組から講演を頼まれ、多くの組員を前に「任侠とは、強きをくじき、弱きを助けるものだ」と熱弁をふるったという。阪神神戸震災の際、山口組が、どの団体より早く、被災者への炊き出し等を行ったのは、その影響があったといわれる。
 遠藤弁護士が大きな壁にぶつかったのは、オウム真理教の件だった。幹部の青山弁護士の弁護人をつとめた際、母親、そして兄弟から離縁をつげられ、一緒に住んでいた娘さんは、家出した。孤立無援の闘い、世の全てを敵にまわした時、冤罪者、そしてその家族たちの心情を深く痛感したことだろう。
 そんな遠藤弁護士の唯一の心の支えは、妻のけい子さんの存在だった。法律事務所の事務員をも献身的につとめ、遠藤弁護士が、問題のある案件をどうするか、最終的に決めるときは、けい子さんに相談し、弁護活動にあたっていたという。遠藤弁護士が、かつて、鬱病に苦しんでいた際、けい子さんの仏教の教えに、救われ、立ち直り、生涯、仏教者として生きようと、「現代人の仏教の会」を主催、月に2回、共鳴する弟子達が事務所からあふれるように、つどっていた。けい子さんとは、別居結婚という形で、生涯の愛をつらぬいた。…>

 遠藤誠弁護士本人は、仏教との出会いをこう書いている。

 <…なぜ仏教の世界に入ったのかについて一言すると、こうである。
 遠因としては、自然を破壊し、モノとカネだけ豊富になれば、人間は幸福になれるのだという今の人類の行き方に根本的疑問を持ったことにあるが、近因としては、1965年(昭和40年)、私を襲ったウツ病にある。
 当時、私は、朝起きるのも、メシを食うのも、家を出て事務所に向かうのも、電話に出るのも、客と会うのも、法廷で弁論するのも、何もかも、むなしくなり、面倒くさくなり、一日フトンをかぶって寝る日がつづいた。東大病院の精神科でも、新薬でも、治らなかった。
 その私のウツ病を治してくれたのは、遠藤家の菩提寺である宮城県大河原町の曹洞宗・繁昌院の前住職・大川玄道師の指導による座禅であった。(遠藤誠著『今のお寺に仏教はない』/現代書館)>

 この著書には雑誌『月刊サーチ』(現在は廃刊)編集長・龍愁麗氏との対談が掲載されているが、彼女が「先生は昭和44年に“現代人の仏教の会”という在家の仏教教団を組織なさったり、“第二東京弁護士会仏教勉強会”を設けられて講義などをされていますが、…どんな講義をなさっているんですか」と聞くと次のように答えている。

遠藤 原則として、テキストには仏教の解説書は使わないで、原文でやることにしています。般若心経、観音経、道元禅師の正法眼蔵の抜粋、親鸞聖人の歎異抄、栄西禅師の坐禅和讃などやってきまして、今は法華経です。法華経は全部で二十八章あって、岩波文庫で三巻になっているちょっと大きなお経ですね。これをひとつも飛ばさずに全文やろうということになって、始めたのが昭和57年7月15日なんですが、1年半たって、先週の木曜日にやっと、第二章が終ったところです。ですから、計算してみると、全部終るのに約12,3年かかるということになるわけです。…

 遠藤弁護士がいかに破天荒な人物だったかを、もうひとつの著書『真の宗教 ニセの宗教』(たま書房)からみてみよう。彼の息子は高校時代、暴走族に入って毎日学校をサボり、松葉杖をついて帰ってきたこともあった。17歳ぐらいのとき警察から「業務上過失致傷罪で息子さんを逮捕、留置した。先生がもらい下げにくれば釈放する」と事務所に電話があった。これに対し遠藤弁護士はこう答えている。

 <「息子は満17歳、数え年で言えば18歳です。昔は15歳で元服といい、れっきとした大人でした。…私は17歳のときは、天下国家をどのようにしたら人民が幸せになれるか、そればかりを考えて生きていました。大人の息子に対して親父の私がもらい下げに行けば、またぞろ同じことをやります。…せっかくの申し出ですが、警察にはまいりません」
「それじゃ先生、そのために息子さんがどのような処罰を受けても異議ございませんか」
「どうぞ、どうぞ。うちの息子が自分でやったことでございますから、無期懲役であろうが死刑であろうが、いっこうにかまいません」>

 その息子は高校を中退して肉体労働などやっていたが、ある日「…大卒の月給と中卒のオレの月給とは大きな違いがある。バカバカしい。これから大学に入りたいと思うが、親父、援助してくれるか」と言う。遠藤氏は“やっと気がついたな”と思い、援助を約束する。息子は大検を受け、一発で大学に受かった。帝京大学英文学部を出た後、司法試験を受けたいと言い出した息子に「受けるなら受けてもいいが、大学まで出した以上、オレの任務は終った。あとは自力でやりなさい」といって突き放したら、アルバイトをしながら受験勉強に励んでいる、と書いている。

 明治末の「大逆事件」(「幸徳事件」)に連座し死刑になった禅僧・“内山愚童”師の法要にも積極的にかかわり、「帝銀事件」の再審請求主任弁護士、死刑囚永山則夫(弁護団長)の遺骨を遺言によりオホーツク海に漁船で出向き散骨、反権力自衛官の免職取り消し請求事件や暴力団新法に関する行政訴訟で山口組の弁護団長を務めるなど、法律家としてつねに「反権力」を鮮明にした活動を展開した。その遺志は、「帝銀事件」死後再審請求のなかに受け継がれている。

 「内山愚童」:http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/shirani_uchiyama.html

 世間法である“法律”と出世間法の“仏法”の忠実な実践者で、「釈迦にかえれ」と叫び続けた遠藤誠弁護士、2002年1月22日永眠。享年71歳だった。


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