耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“死刑制度”是か非か~光市・母子殺害事件から学ぶ

2007-09-26 11:24:17 | Weblog
 “死刑制度”がいかに危うい制度かに関し、6月20日の記事『“裁判官の良心”~熊本さんのブログ』(http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070620)
でふれたが、「タレント弁護士」で知られる橋下徹によるテレビ番組での「煽り発言」をきっかけとして、“弁護士とマス・メデァ”ないし“死刑制度”是非の論議がブログ上でも盛んに行なわれている。橋下徹弁護士のテレビでの発言に基づく『光市・母子殺害事件』弁護団への脅迫・嫌がらせは想像を絶する状況にあるらしい。弁護団の一員である今枝仁弁護士は、ブログで心中を吐露している。

 「弁護士・未熟な人間・今枝仁」:http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gl/imajin28490


 民間放送はほとんど見ないので詳しい状況は知らないが、散見されるメディアに関する情報から判断すると、「視聴率向上のためなら何でもあり」という番組制作が横行していることは疑えない事実ではないかと思われる。橋下弁護士の「煽り発言」もこうしたマス・メディアの基本姿勢に由来すると見ていいだろう。ここまでくれば、メディアは明らかに「巨大権力」を濫用していると言わざるを得ず、民法第90条に定める「公序良俗に反する」なんらかの法律行為にふれるのではないか。次の広報はそれを証明しているように思える。

 「弁護団広報ページ」:http://wiki.livedoor.jp/keiben/d/FrontPage


 さて、「死刑制度」についてだが、私は「反対」である。その理由を述べる前に5月18日の記事『“今こそ釈迦にかえれ”と説いた弁護士・遠藤誠』を読んでみてほしい。

 「…遠藤誠」:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070518
 
 仏陀は“不殺生戒”を説いたが、“殺生”をしなければ人間は生きていけないことを仏陀が知らなかったわけではない。それでもあえて“殺すなかれ”と言ったのは、人間の“悪”をつくり出す心のありように「錠を下ろす」意図あってのことだと理解したい。「無益な殺生はしない」こととも言えるが、人間同士の殺し合いには「無益」も「有益」もあるまい。ひとえに“殺すなかれ”である。

 だが、時として“悪”をつくり出す心が現れ、人は「殺人者」になる。その罪深い者をどう裁くか。償いの方法はいくつも考えられるなかで、仏陀は果してその「殺人者」を“目には目を”というが如く“殺せ”と言うだろうか。“慈悲”を説く仏陀が“殺せ”と言うはずはないと私は理解する。仏陀の教えに帰依する私は、ここに“慈悲”を持ち出したが、仏法とは違う世俗の「法律」に仏の“慈悲”がなじまないことぐらい承知しているつもりである。だが、世俗の「法」の中核には“基本的人権”という概念が存在する。この“人権”を侵すことが赦されないことは誰でも知っている。“死刑”は“人権”を侵すことにならないのか。

 私が“死刑制度”に反対するのは、聖俗どちらからみても、たとえどんな極悪人であっても“殺す”ことは赦せないと思うからである。同時に、これまで“冤罪”によって“殺された”人が少なくない。裁きの側の「無謬性」は無くなっていないのである。「死刑制度廃止」を提唱されている次の記事を参照してほしい。

 「鳥居正宏…」:http://tokidokilogos.blog109.fc2.com/blog-entry-22.html


 いつも感心して読ませていただいている『村野瀬玲奈の秘書課広報室』には、「光市事件」に関する情報が満載されているからご参考までにリンクさせていただいた。

 「村野瀬玲奈…」:http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-311.html

 さらに『村野瀬』さんは「フランス法務大臣の“死刑廃止法案”演説全文」を訳し紹介された。深く敬意を表するとともに皆さんにも是非紹介させていただくことをお許し願いたい。

 「村野瀬玲奈…」:http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-250.html

 
 最後に、“親鸞”の言葉『歎異抄』から有名な一文を引いておく。

 <またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふとまふしさふらひしかば、さらば、いはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つゝしんで領状(りょうじょう)まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定(いちじょう)すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人(いちにん)もこの身の器量(きりょう)にてはころしつべしともおぼへずさふらふとまふしてさふれひしかば、さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。
 これにてしるべし。なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のため千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁(ごうえん)なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしは、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。…>
 

 “冤罪”事件で有名な『サッコ・バンゼッティ』事件とは?:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 『サッコ・バンゼッティ』を歌う:http://youtube.com/watch?v=J7mtmkoZG2Y&mode=related&search=