医学生の「解剖学実習」は、文部科学省では医学部生2人に対し1体、歯学部生4人に対し1体としていて、最近では看護師、理学療法士、歯科衛生士などのコ・メディカル(医師・歯科医師・薬剤師以外の医療従事者)を目指す学生を解剖実習に参加させる大学がふえているという。
(参照http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AE%E4%BD%93)
現在の「解剖学実習」は、ほとんど「篤志献体」によるそうだが、1950、60年代は医学教育の危機ともいわれ、先にあげた基準の5分の1にも満たない「遺体不足」に悩まされたらしい。関係者の地道な「献体」啓蒙運動でその悩みも解消され、一部の大学では献体申し込みを一時中止するというありがたい現状だという。
(参照http://www.kentai.or.jp/)
ところで、わが国医学教育における人体解剖実習は明治時代に始まる。こんにちの「篤志献体」にあたる遺体提供者の第1号は、1869(明治2)年8月14日、東京の医学校(のちの東京大学医学部)で解剖された遊女美幾だという。立川昭二著『明治医事往来』(新潮社)を見てみよう。(<>が引用)
<当時その現場に医学生として立会ったのちの東大初代解剖学教授の田口和美は、次のように回想している。
「…同月14日和泉橋通旧医学所跡に設けたる仮小屋に於て、入院患者娼妓みき女の屍体を生前の請願に依りて、内臓より四肢の筋肉に至るまでを剖観しましたは、当代に於ける実地解剖の濫觴であります。けれども、此挙たるや所謂解臓(ふわけ)と云ふべきもので、未だ次序逐節を追ひ、系統的に屍体を解剖したるものではありませんでした。」>
大学によって手厚く葬られた美幾の墓は、東京都文京区白山の念速寺に今もあるという。
4人目の「篤志解剖」も美幾と同じ遊女で名を“は津”といった。東大所蔵の史料『解剖日記』に、1870(明治3)年10月3日、“は津”の名で「乍恐以書付奉願上候」との書付が、地主・正五郎が代行し「黴毒院」宛に提出されている。
<この書付が出た翌日、大学東校は東京府と弾正台に解剖許可を願い出ている。それによると、“は津”は4日早暁死去したから、同日12時から“試験解剖”をし、そのあと目白台の本住寺に埋葬したい、と記されている。大学東校の日記によると、“は津”の解剖執行は5日で、7日に埋葬されたことになっている。
仏になった“は津”は、「深入妙定信女」という遊女にしては立派すぎる戒名がつけられた。本住寺には永代読経料として3両が与えられたことは、美幾の場合とおなじであった。ただ、美幾の親元には10両が与えられたが、身寄りのない“は津”にはその必要はなかった。そして、美幾の解剖同意書は兄と父母の連名であったが、“は津”の場合は本人の名で出されている。身寄りの者がいなかったからか。書付の日付が死の直前ということから推理すると、あるいは━臨終の床の“は津”に因果をふくめて、用意した書類に拇印でも押させたのかもしれない…。>
今から100数十年前、すでに「篤志解剖」が行われていたことには驚く。しかもその濫觴が遊女だったことを記憶にとどめたいと思う。医学の進歩に、名もなくかくれた存在だった人々が貢献していることを忘れてはなるまい。
(参照http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AE%E4%BD%93)
現在の「解剖学実習」は、ほとんど「篤志献体」によるそうだが、1950、60年代は医学教育の危機ともいわれ、先にあげた基準の5分の1にも満たない「遺体不足」に悩まされたらしい。関係者の地道な「献体」啓蒙運動でその悩みも解消され、一部の大学では献体申し込みを一時中止するというありがたい現状だという。
(参照http://www.kentai.or.jp/)
ところで、わが国医学教育における人体解剖実習は明治時代に始まる。こんにちの「篤志献体」にあたる遺体提供者の第1号は、1869(明治2)年8月14日、東京の医学校(のちの東京大学医学部)で解剖された遊女美幾だという。立川昭二著『明治医事往来』(新潮社)を見てみよう。(<>が引用)
<当時その現場に医学生として立会ったのちの東大初代解剖学教授の田口和美は、次のように回想している。
「…同月14日和泉橋通旧医学所跡に設けたる仮小屋に於て、入院患者娼妓みき女の屍体を生前の請願に依りて、内臓より四肢の筋肉に至るまでを剖観しましたは、当代に於ける実地解剖の濫觴であります。けれども、此挙たるや所謂解臓(ふわけ)と云ふべきもので、未だ次序逐節を追ひ、系統的に屍体を解剖したるものではありませんでした。」>
大学によって手厚く葬られた美幾の墓は、東京都文京区白山の念速寺に今もあるという。
4人目の「篤志解剖」も美幾と同じ遊女で名を“は津”といった。東大所蔵の史料『解剖日記』に、1870(明治3)年10月3日、“は津”の名で「乍恐以書付奉願上候」との書付が、地主・正五郎が代行し「黴毒院」宛に提出されている。
<この書付が出た翌日、大学東校は東京府と弾正台に解剖許可を願い出ている。それによると、“は津”は4日早暁死去したから、同日12時から“試験解剖”をし、そのあと目白台の本住寺に埋葬したい、と記されている。大学東校の日記によると、“は津”の解剖執行は5日で、7日に埋葬されたことになっている。
仏になった“は津”は、「深入妙定信女」という遊女にしては立派すぎる戒名がつけられた。本住寺には永代読経料として3両が与えられたことは、美幾の場合とおなじであった。ただ、美幾の親元には10両が与えられたが、身寄りのない“は津”にはその必要はなかった。そして、美幾の解剖同意書は兄と父母の連名であったが、“は津”の場合は本人の名で出されている。身寄りの者がいなかったからか。書付の日付が死の直前ということから推理すると、あるいは━臨終の床の“は津”に因果をふくめて、用意した書類に拇印でも押させたのかもしれない…。>
今から100数十年前、すでに「篤志解剖」が行われていたことには驚く。しかもその濫觴が遊女だったことを記憶にとどめたいと思う。医学の進歩に、名もなくかくれた存在だった人々が貢献していることを忘れてはなるまい。