仏教・禅は「中道」の人格上の体現
「禅はあくまでも自己が身をもって体得した事実でなければ
ならず、事実の影にすぎない思想や知識であってはならない。
「無」とは有無を超えるものである、一切の二元的分別を尽
しきった絶対的一者のことだ、などと知解をろうしていたら、
真の「無」は永久に失われてしまう。」
「自と他、主観と客観の二元的分別心を超えて、超個にして
しかも個である一如の妙用(自由無礙な禅的働き)に生きる
ことである。」
「実践的な禅の修行では「声に随い色を逐う」すなわち二元
的な分別意識におぼれて、客観界に引き落されることを何よ
りも避けなければならない。禅は普通次元でいう主客を共に
超えて、絶対主体として生きる真実の自己を確立するものだ
からである。」
禅の究極の目的は、悟りの体験によって全く新しい宗教的人
格を完成し、一瞬一瞬、一挙手一投足に禅を生きることにあ
る。この根源的な悟りの体験を欠くならば、どんなに優れた
技能も心的状態も、それはもはや禅ではない。」
悟りを得た者は、そこにとどまることなく、苦悩する人々の
中に入り、悟ることによって見た本質を生活に体現して、
人格的な体現をつづけなければならない。
「禅はあくまでも自己が身をもって体得した事実でなければ
ならず、事実の影にすぎない思想や知識であってはならない。
「無」とは有無を超えるものである、一切の二元的分別を尽
しきった絶対的一者のことだ、などと知解をろうしていたら、
真の「無」は永久に失われてしまう。」
「自と他、主観と客観の二元的分別心を超えて、超個にして
しかも個である一如の妙用(自由無礙な禅的働き)に生きる
ことである。」
「実践的な禅の修行では「声に随い色を逐う」すなわち二元
的な分別意識におぼれて、客観界に引き落されることを何よ
りも避けなければならない。禅は普通次元でいう主客を共に
超えて、絶対主体として生きる真実の自己を確立するものだ
からである。」
禅の究極の目的は、悟りの体験によって全く新しい宗教的人
格を完成し、一瞬一瞬、一挙手一投足に禅を生きることにあ
る。この根源的な悟りの体験を欠くならば、どんなに優れた
技能も心的状態も、それはもはや禅ではない。」
悟りを得た者は、そこにとどまることなく、苦悩する人々の
中に入り、悟ることによって見た本質を生活に体現して、
人格的な体現をつづけなければならない。