どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

日展審査出来レース事件

2013-11-20 17:30:30 | インポート
日展の審査で、事前に会派から何人と入賞者が振り分けられていた事件があった。事の発端は日展の書道部門の篆刻部門、はんこを作る部門です。あまりな事が起きていたようです。そこで内部告発者が現れ朝日新聞がリークしたものです。

そもそも公募展なのに、会派による出品制限があると言うのが、おかしな話しなのですが。

朝日新聞なのには理由があります。読売だったら確実に握りつぶしていたでしょう。読売には読売書法展という公募展があります。ここも実態はそうなので、読売には書けないでしょう。毎日新聞もそうですね。


さてこれが書道だけだったらまだしも、他の部門でもそうだった、というニュースが入っています。


このニュースがなぜニュースになるのか、実は不思議です。もう何十年と続いて来たことです。これに反発して完全自由公募の作品展があったりします。そう言った歴史的な経緯を、記者が解っていないようです。

とはいえ金で賞が取れるんだから結構なものです。そう考えている人も多いと思いますが、実際は厄介です。例えば書道ですが、子供の時に近所の書道教室に通います。そこでなんか力があると認められると、その上の先生から添削が受けられるようになります。そうこうしているうちに実力が積み上がってゆくと、それこそ読売書法展に出してみないか?とかなってゆきます。こういったピラミッド構造になっています。
問題は作品を作るのにどの程度の紙と墨汁を使うのかです。実はここは誰も知りません。考えたくないようです。筆がすり減ってだめになるほど、と言えば解るでしょうか。

ピラミッドだからトップが総取りかと言えば、そうでもありません。実力があってやる気のある若手には、紙や筆、硯なんかプレゼントしたりもします。そうしてやる気や努力を促していかなければいけません。若手が育っていないとこういったピラミッドはあっという間に寂れてゆくからです。そうすると人も集まらない。

逆説的に人数の多い会派は、出品数を多く認められます。そのためにもピラミッドを大きくしてゆく必要があります。そして人が多いと、それなりに実力者が生まれます。スポーツといっしょです。

さてこの子が大人になり、ついに日展に出すと言う事になりました。ここから世界が極端に変わります。プロへの最終段階だからです。もちろん読売や毎日で入選10回とかでも十分な実力を現せます。秀逸とか特選があればなおさらです。揮毫を頼まれてお金をもらっていいレベルです。
ここまで来てやっと日展に出品して良いよと師匠から言われます。プロになるんだから、キッチリと指導するよ、指導料高いよ?となる訳です。現実には指導されたからと言って、日展に入選出来る訳ではありません。なので師匠の師匠、この場合は日展の審査員とか顧問に指導を仰ぎます。彼らにとっても自分が指導するのだから、恥ずかしい作品を出させる訳にはいかない所があります。チョチョイのチョイといった添削はしないはずです。と思うのですが、まあそこはそこ。そもそもこの段階で初対面と言う事はほぼありません。業界は狭いのです。
そうして指導していい作品ができました。各会派の師匠も同じように弟子を抱えています。それでも入選者数の上限は決まっています。あとは師匠同士の政治的暗闘がある訳です。

えっとですね、この段階に来る人って全国でもとても少ないです。なので、もう大体この業界では名が知れ渡っている訳です。そうすると、あいつは今までこうだったから今回は難しいかな?とか解られてしまってもいます。なので2段階特進とかそう言った事が起きにくい業界です。
このシステムの良い所は、出品者の実力を揃える事が出来ます。特に表現よりも技術が高いものが集まる事になります。次に審査時間の短縮も出来ます。更に審査がブレなくなります。あまりにもデコボコな作品が続くと、その前後で審査基準がブレてしまいます。

欠点はお金のやり取りです。ただ日展を通ったと言う事は、絶対的な技術保証があると言う事です。あとはそれを使った表現で食べていけるかどうかです。


私はこういったシステムを肯定している訳ではありません。ただこれって何かに似ていませんか?これはギルトのやり方です。古い時代のドイツのマイスター制みたいなものです。工房に弟子入りして修行を積み、親方の手伝いをしながら実力をため、工房の仕事を単独で受けられるようになり、親方が独立を認めて、他の親方に紹介して承認されて独立を果たす、これと同じ事です。

結局の所、日本の美術のある部分では、お家制度が濃厚に残っているわけです。それがなぜ残っているかと言えば、本当に表現で人から認められる事が難しいからだと思います。お家制度は、それぞれの段階で承認されてゆくのですから、悩む所は少なくて済むのかな?と思います。

歴史上この制度が破壊された事もあります。江戸時代の国学運動です。ここで和歌のお家制度が絶滅の危機に陥りました。なにしろお家制度では自由に和歌を歌う事が出来なかったからです。忍ぶ恋ばっかりのテーマで、万葉集の自由はありません。それを取り戻したのが国学運動だったのですが、気がついたら特定の先生に弟子が集まると言った構図が出来上がっていましたし、和歌のお家もそれなりには存続出来ました。これもまた不思議な話しです。


このニュースがニュースになるのが、ニュースだと思います。日本にどこにでも見られる風景がここにあります。サラリーマンが上司にお歳暮を贈るのとどこが違うのか。部長になって社長にお歳暮を贈るとなれば単価が違いますね。それとどこが違うのか?

これほどまでに有名な話しもなかったのです。美術家の中には、だから会派には入らないと言う人もいます。
用例に出した書道ですが、彼は無事日展入選を果たします。でもそれ以降一切出しません。師匠は出せ出せと言ってくるのですが、無視しています。「あんなの一回とれば十分だよ。所詮勲章だから。あれば便利なだけだよ」そう言いながら、後進の指導をがんばっています。


人の生き方の、一つだと思います。



PS 日展の会員になれれば年金が出ます。フランスの制度をまねたものなのです。とはいってもフランスのそれとは違って日展の作家って、ポピュラーではありません。なんでこのギルドで年金が出るの?そう思われるかもしれません。ただ残念な事に、官僚の判断出来る美術評価ってこんなものです。


追加で、この書家の老後の話しをしましょう。


後進もかなり出世しました。今は小さく出来る範囲で書道教室を運営しています。教え子たちがたまに挨拶に来ますが、おまえは悪ガキだったな~とかいってしまうのが悪い癖で、何か煙たがられているようです。ただもう歳が歳です。米寿を迎えます。もういつ辞めようかとおもっているのですが、なぜか仕事が入っています。同じ米寿のお祝いに揮毫を頼まれます。そうゆう事なのでしょうか。

枯れた味わいの書だと言われますが、枯れたつもりは全くないのですが出来ない事は増えています。歳をとらないと出来ない事もあるようです。

~中略~

来年100歳になります。最近では筆を持つのもやっとなのですが、周りが差配してくれるのでなんとか作品を書く事ができます。でも少数字のものしか出来ません。まずは出来る事しか出来ないので、仕方がないのかと思います。でも揮毫以来は増える一方です。縁起物になっているとは自分でも解っているのですが、それ以上にしたいと考えるばかりです。
今般若心経を少しずつ書きはじめています。周りは世紀の傑作になるだろうと言ってくれるのですが、縁起物としてでしょうね。高いんでしょうね。売ったら。

少し腹が立ったので、大般若経を書くと言ったらみんな褒めてくれます。すばらしい、この歳で若々しい意欲と言われました。

長生きしてよかったと本当に思いました。生きてこなければ出来ない事もあるようです。


これもまた一つの生き方だと思います。


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