ダイヤモンドオンラインで、震災を検証する連載がある。とっても良い記事だ。
この中には様々な被災者が出てくる。ただ一つだけ共通点がある。
東電の悪口をまくしたてる被災者が、ほとんどいないという事だ。特に福島県人がそうだ。もちろん記事なので記者がその辺りをボカしているのかもしれないが、この記事のタッチからはそうは感じられない。
たまに、東電の事を憎くてたまらないという被災者はいる。しかしそれはあくまでも心の中でのほとばしりであって、出来るだけ話さないようにしているというのが伺える。
確かに、福島県は原発を誘致する事で交付税から様々特典があった。これに対するうしろめたさもあるかもしれない。しかしこれを震災前に本当に解っていた福島県人はどの程度いたのだろうか。そもそも原発が危険だという事を、理解していなかった。というか洗脳に近い状況にあったのではないのか。でなければ、原発事故直後の大熊町ののんびりした住民たちの姿は説明が出来ない。
原発事故から現れた問題は余りにも多すぎる。震災そのものの被害、国債発行残高の問題から復興予算が出せない国の問題、当然地方も同様な問題を抱えている。雇用の問題、自立できない農水業の問題、高齢化の問題はこの東北地方では元々もの凄く大きい。健康保険や医療の問題もここに繋がっている。産業構造の問題、例えば土建王国と言われている岩手県だが現実の所、ここ10年以上に渡って大型公共事業が無いため技術者がかなりいない。もともと3Kと言われるほどの世界で、見通しが暗かったから後継者が育っていなかったのだ。
東京という問題もある。若い子は東京を目指して巣立つ。そこで材をなして帰ってくるかと言えばそんな事は無い。帰ってくるのは問題が起きて帰ってくる例ばかりだ。定年後は東北で、というのも困ったものだ。健康保険の金額を上げるだけだ。ちなみに東京との健康保険税と岩手の健康保険税は倍どころでなく違う。東京は若く健康な人を集めて繁栄しているが、問題が起きた人を地方に飛ばしているから健康保険が安くなっている。
福島原発は、その東京に電気を送っていた。
事故以来どんどん露になる問題を前に単純な解決策が無いという事を、身にしみて知ってしまった。答えが無いのだ。どのような情報を集めようが、客観的であろうと努めようが、心の赴くままに判断しようが、答えが無いという事実があるのだ。
東電にすべてを押し付けて解決になるのか?国の責任と言い切っていいのか?自分たちが選んできた政治家の責任は、自分たちの責任でもないのか?自分はなぜ地元に就職したのか?
別な記事に、南相馬市に住むお父さんたちの記事があった。悩みを共有しようという試みだ。そこには様々な人がいる。自分は仕事のために残って家族は避難しているとか、逆に家族ごと南相馬市に戻った人もいる。当然事故以降も離れられなかった人もいる。共通する思いは、これで正しかったのか、という事だ。
答えが無い。だから正しいかどうかを常に自問自答しなければ行けない。
よくそんな土地に住まずにはなれた方が良いという人がいる。確かにそうだ。だがいまのコミュニティから離れるというのは、もの凄いストレスになる。高齢者には勧められない。離れて仕事があるのかという問題もある。東電や国からの賠償金でウハウハすれば良いじゃないのかという人もいる。でも仕事がなければ、自分と社会の接点が無くなるという事を意味する。
人は社会に認められて、生きるものだ。そこに仕事や地域社会がある。片方が欠けると人はうまく生きられなくなる。これをいきなり新天地でがんばりなさいと言われても、両方あっという間に再構築できる人間なんて滅多にいない。
今東北で起きている事は、実は全国に当てはまる事だ。東北では放射能の問題が余りにも大きすぎて、全国からは見えにくくなっていると思う。
東電の悪口をなぜ東北人は言わないのか。確かに福島から抗議団体が押し掛けた。でも大多数は言わない。東北人が寡黙だとか恥ずかしがりやだからという訳ではない。
答えが無い事を知っているからだ。安易な答えがいかに危険なのか、よくわかっている。東電の責任だけには全く出来ない。だから恨むのだ。そして自分の無知を恨むのだ。そして自分の人生を恨むのだ。恨む自分を恨むのだ。
しかし恨みは口に出すと呪いになる。呪いは自分にも降り掛かる。
答えが無いから、とりあえず一歩を踏み出さなければ行けない。
しかし差別の問題が起きている。
もはや、としか言えない。
最後になるが、差別というのは人権侵害でもあるが、呪いなのだ。呪いが何も生まない事は解ると思うが、互いに末代まで祟る。それでいいのか、と言いたい。
生者が死者を羨み、という台詞があるが、ギリギリでふんばっている。これが東北の現状だ。だから岩手は福島の悪口は言わない。宮城も言わない。知ってしまったからだ。
この中には様々な被災者が出てくる。ただ一つだけ共通点がある。
東電の悪口をまくしたてる被災者が、ほとんどいないという事だ。特に福島県人がそうだ。もちろん記事なので記者がその辺りをボカしているのかもしれないが、この記事のタッチからはそうは感じられない。
たまに、東電の事を憎くてたまらないという被災者はいる。しかしそれはあくまでも心の中でのほとばしりであって、出来るだけ話さないようにしているというのが伺える。
確かに、福島県は原発を誘致する事で交付税から様々特典があった。これに対するうしろめたさもあるかもしれない。しかしこれを震災前に本当に解っていた福島県人はどの程度いたのだろうか。そもそも原発が危険だという事を、理解していなかった。というか洗脳に近い状況にあったのではないのか。でなければ、原発事故直後の大熊町ののんびりした住民たちの姿は説明が出来ない。
原発事故から現れた問題は余りにも多すぎる。震災そのものの被害、国債発行残高の問題から復興予算が出せない国の問題、当然地方も同様な問題を抱えている。雇用の問題、自立できない農水業の問題、高齢化の問題はこの東北地方では元々もの凄く大きい。健康保険や医療の問題もここに繋がっている。産業構造の問題、例えば土建王国と言われている岩手県だが現実の所、ここ10年以上に渡って大型公共事業が無いため技術者がかなりいない。もともと3Kと言われるほどの世界で、見通しが暗かったから後継者が育っていなかったのだ。
東京という問題もある。若い子は東京を目指して巣立つ。そこで材をなして帰ってくるかと言えばそんな事は無い。帰ってくるのは問題が起きて帰ってくる例ばかりだ。定年後は東北で、というのも困ったものだ。健康保険の金額を上げるだけだ。ちなみに東京との健康保険税と岩手の健康保険税は倍どころでなく違う。東京は若く健康な人を集めて繁栄しているが、問題が起きた人を地方に飛ばしているから健康保険が安くなっている。
福島原発は、その東京に電気を送っていた。
事故以来どんどん露になる問題を前に単純な解決策が無いという事を、身にしみて知ってしまった。答えが無いのだ。どのような情報を集めようが、客観的であろうと努めようが、心の赴くままに判断しようが、答えが無いという事実があるのだ。
東電にすべてを押し付けて解決になるのか?国の責任と言い切っていいのか?自分たちが選んできた政治家の責任は、自分たちの責任でもないのか?自分はなぜ地元に就職したのか?
別な記事に、南相馬市に住むお父さんたちの記事があった。悩みを共有しようという試みだ。そこには様々な人がいる。自分は仕事のために残って家族は避難しているとか、逆に家族ごと南相馬市に戻った人もいる。当然事故以降も離れられなかった人もいる。共通する思いは、これで正しかったのか、という事だ。
答えが無い。だから正しいかどうかを常に自問自答しなければ行けない。
よくそんな土地に住まずにはなれた方が良いという人がいる。確かにそうだ。だがいまのコミュニティから離れるというのは、もの凄いストレスになる。高齢者には勧められない。離れて仕事があるのかという問題もある。東電や国からの賠償金でウハウハすれば良いじゃないのかという人もいる。でも仕事がなければ、自分と社会の接点が無くなるという事を意味する。
人は社会に認められて、生きるものだ。そこに仕事や地域社会がある。片方が欠けると人はうまく生きられなくなる。これをいきなり新天地でがんばりなさいと言われても、両方あっという間に再構築できる人間なんて滅多にいない。
今東北で起きている事は、実は全国に当てはまる事だ。東北では放射能の問題が余りにも大きすぎて、全国からは見えにくくなっていると思う。
東電の悪口をなぜ東北人は言わないのか。確かに福島から抗議団体が押し掛けた。でも大多数は言わない。東北人が寡黙だとか恥ずかしがりやだからという訳ではない。
答えが無い事を知っているからだ。安易な答えがいかに危険なのか、よくわかっている。東電の責任だけには全く出来ない。だから恨むのだ。そして自分の無知を恨むのだ。そして自分の人生を恨むのだ。恨む自分を恨むのだ。
しかし恨みは口に出すと呪いになる。呪いは自分にも降り掛かる。
答えが無いから、とりあえず一歩を踏み出さなければ行けない。
しかし差別の問題が起きている。
もはや、としか言えない。
最後になるが、差別というのは人権侵害でもあるが、呪いなのだ。呪いが何も生まない事は解ると思うが、互いに末代まで祟る。それでいいのか、と言いたい。
生者が死者を羨み、という台詞があるが、ギリギリでふんばっている。これが東北の現状だ。だから岩手は福島の悪口は言わない。宮城も言わない。知ってしまったからだ。
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