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どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

ウィン・バロック

2013-07-18 02:58:17 | 写真の話し
ウィン・バロックというアメリカの写真家がいる。どの程度の知名度を持つのかと言えば、かの有名なニューヨーク近代美術館の「The Family of Man」の初めの一枚を飾った。カタログ版でも確か2枚目だ。この写真展は世界を巡回し、日本にも来たので有名だ。
実は当時のアメリカのストレートフォトグラファーたちと親交があり、F64グループと交流があったはずだが、ストレートでも濃厚なロマンティックな作風だった。日本人の広告カメラマンでも影響を受けた人は多いのではないのかと思う。

百聞は一見にしかず、このサイトから写真を見れる。1940~70年代のアメリカの写真家の中でも指折りに入る写真家なのは間違いがない。

ということで、ウイキとかでもありそうな人物なのだが日本語版では、ない。英語版はあるが、肖像写真すらない。もしかすると著作権の問題なのかもしれないが、扱いがチト悪い。

今後扱いが更に悪くなると思う。代表作が「森の少女」というのが理由だ。この写真なのだが、発表当時から賛否両論だった。この賛否はとても面白い。男女差が明快に分かれたからだ。男性は森に眠る妖精と考え、女性は山深く遺棄された少女の死体と考えたのだ。
ジェンダーの議論としても面白いのだが、最近違う考えもでて来た。

児童ポルノ法だ。ただこの作品は、現在の日本の児童ポルノ法では引っかからないはずだ。バロックの娘でもあるし、今現在生きていたとしても、60代だろうか。本人がクレームを付けた事は、今の所聞いた事が無い。だから大丈夫なはずなのだが、何か不安になる。

いや児童ポルノ法の解釈の拡大がこのままで行くとどうなるのか、どうも不安だからだ。昔の児童ポルノをCGで再現したものが摘発された。これは悪質性が高いと思うが、孫の水遊びをしている写真ですらダメというイギリスの話しあった。

もちろんウィン・バロックの他の作品を見れば、彼がいかに真面目なのかも解るし「森の少女」のイメージが実は多重にあり決してエロではない。

だが今後どうなるのだろうか。
バロックの写真は本質的にエロだ。だが森の少女は真面目すぎるほど真面目に撮影していると思う。

今だからこそ。ウィン・バロックは注目されるべきだ。


カメラマンと写真20

2013-03-18 03:20:37 | 写真の話し
さて久しぶりにブログを更新する。なぜかと言えば仕事が忙しかったからだ。二日間で1800カットスナップ撮影した。正確に言えば二日間のうち9時間でこのカット数だ。今回はこれを使ってグチを書こう。

デジタルの効能なのだが、これをリバーサルフィルムに置き換えると、36枚で現像代込みで2000円程度だから、10万円ほどの経費になる。実際の所高感度が必要な撮影だったので、13万くらいだろうか。これだとニコンだったらD-7100が買える。そう考えれば、デジカメのコストって相当安いと言う事になる。

だが、デジカメ以降撮影価格が暴落しているので、コストダウン効果はイマイチ実感しない。その上に物理的な制約が無くなったので、カット数を要求される事がある。今回なんてまさしくそれだ。とはいっても撮りすぎた。ちょっと追い込まれたフシはある。

さてここまで撮影すると、まずデジカメでも確認が相当難しくなる。まず時間がない。次にだが、別なシャッターチャンスを狙った方が結果がいいと考えているからだ。
だが、もう一つ別な理由がある。老眼が進んで来たのだ。確認するためにはデジカメのあの小さなモニターを見るのだが、ド近眼の私はいちいち眼鏡を外さないと確認出来ない。勢いボンヤリと確認する事になる。最近ではあのモニター恐怖症になっている。重要な時には外してみるのだが、そのワンクッションがかなり苦痛に感じる。

どうも現像するまで解らなかったあの時代があったから、その習性もあると思う。失敗しようが何しようが次に進んでゆくのが当たり前だった時代がある。それがデジカメになってから確認するのが当たり前で、結果は常に最適な露出になっているようにしなければならない、そうなっている。もちろんプロだからミスがないのが前提なのだが、ミスが起きる原因はいっぱいある。スナップでは特にそうだ。照明のフリッカーや人物の目つぶり、そしてなぜかピントが甘いAFの問題イロイロある。


さてカメラマンはいっぱいシャッターを切る。これはなぜなのか。実は第一にミスの問題だ。もちろん本人はミスがない事を前提にシャッターを切っているが、いくらかミスを無くするためにシャッターを切っている部分がある。例えば照明写真何かでも3枚は最低撮るだろう。理由は目つぶりがあるからだ。デジカメでは確認出来るからいらないと言えばいらない。でも3枚は撮る。ちょっとした違いがあるからだ。
人は以外とじっとしていないものだ。

これがコマーシャルになると、その微細な差を追求してゆく事になる。人物なんてその最たるもので、微妙な差がいっぱいある。実はその微妙な差をうまく掴むために、アイドリングみたいなシャッターもある。被写体との波長を合わせるためにあっためるシャッターだ。うまく掴めないときもあるし一発目から掴めるときもある。

シャッターチャンスと言う言葉があるが、あれはそうそうない。むしろどうすれば迎えられるのか、ここが大きい。よく言うシャッターチャンスは偶然撮ったものなのだが、シャッターは予測していないと切れないものなのだ。だから努力する。

スポーツカメラマンでも野球専門の人などはそうだろう。あるピッチャーのスコアを全部把握して癖を見抜くのはもちろん、バッターのそれも解っていないと、コンスタントにバット近くにボールがある映像は撮れない。
それでは秒間8コマとかの連射で撮影すれば良いのでは、普通はそう考える。しかしそれですら予測が必要なのだ。誰でも100分の1秒のタイミングにあわせるのには、8コマでは不十分なのだ。最低30コマだろうか。彼らは8コマのどこかにベストが来るタイミングでシャッターを切っている。これは凄い事なのだ。


さてその野球専門家たちだが、野球はピッチャーが投げてバッターが打って、守備がどうこうして、一旦ゲームが止まる。その瞬間に記者席のカメラマンが一斉にモニターを見始める。本当に一斉に動く。かなり奇妙なのだが、撮れたか撮れていないかを確認しているのだ。そして不要な画像を消してゆく。
理由は即座に配信する事が出来るから、データーは現場で整理しておかないと間に合わないからだ。そのまま放っておけば1000カット以上の写真を確認してから、カットを特定して配信すると言うまだるっこしい話しになる。
さて秒間30コマ切ったらどうなるのか。確認の時間が無くなる。量が多すぎる。


1000カットの写真の確認にはどれだけの時間がかかるだろうか。ブラウザーソフトでざっくり確認する場合は割と早い。ただピントの確認とかイマイチ遅い。おまけにゴミ箱に送る操作が出来たり出来なかったりする。なので結局フォトショップで確認している。
これが苦痛だ。大体1時間あたり150カットから200カット確認出来れば良い。
確認は大切だ。いろいろ反省するのだ。その時私はこうでああで、カメラはああでそうで、被写体には文句付けられないけど、確認しつつ自分の技を反省する、そういった作業だ。

だがこれが量が多いとウンザリする。もちろん私がダメだからなのだが、1800枚見ると途中で反省も何も投げでしたくなる。一日目の午前中で600カット。心が折れそうになった。

しかし自分で選択して撮影しているのだから、心が折れる事はあるはずがない。普通はそうだ。フィルムの時代は直接ルーペで覗いて、確認していたものだ。なんと言おうか、あれは過去の自分、だから小さい。今から思えばそういった所がある。小さい方が客観的な判断がしやすかったのだろう。同じカット数だったら、アナログの方が集中して短時間で見れた。1800カットだったら2時間だろう。

しかしデジタルになってから、どうもファイルの開く時間も問題だし、ファイルどうしの比較する作業が煩雑になっている。だがもっと変な話しがある。

ルーペで覗くと言うのは主体的でないと出来ない。だがモニター上で見ると主体が無くなって、自分の悪い所ばかり目についてしまう。画像が大きいから欠点も見えやすいし、ピントなんて被写体ぶれなのかAFのミスか、手ぶれか簡単に分析出来てしまう。

そしてそういった分析ばっかりしがちになってしまう。良い写真かどうかなんてそっちのけになってしまう。技術的な改善はいくらでも出来ると思うが、1800カットを見ると、どうも感覚が麻痺してくる。

そもそも自分の撮った写真だから、自家中毒状況になってしまう。今回はおしなべてアンダーな露出になった。それは狙っていたのだが、これはこれでちょっと違うよと感じている自分もいたり、こことここがあれであれがとか、もの凄い悩みが起きる。そこで寄り道をしたりイロイロあるのだが、今回は1キロウロウロとダイエーネタでごまかしつつ、何とかなった。


そもそもその写真の量に圧倒されてしまう。見ようとするだけで覚悟がいる。見たら見たで時間ばかりかかる。

9時間で1800カットは、止めた方がいい。今回の反省だ。

とはいえカメラマンだからでしょうか、ウロウロしつつも本年度の寒さによる道路の痛み具合を撮影してきました。


カメラマンと写真19

2013-03-03 21:04:50 | 写真の話し
Photo_2


今回は少し軽い話しです。ひな祭りですしね。

キャノンがPowerShot Nを発売します。このカメラはコンパクトで使い勝手からすべて考え抜かれた製品のようです。特にブログ等ネットで写真を使う人を主に考えて作られています。

なお今回の写真は、PowerShot Nで撮影したものではありません。ただイタズラだけはしました。


フツーにも使えるのですが、「クリエイティブショット」というモードが大胆で話題になっています。このモードでは、シーンを自動で判別して露出を変えたりピントを変えたりしたショットを3つ収得、そのデーターをもとに5枚の写真を自動生成すると言うものです。
このアルゴリズムを作るため、ネット上の写真を参照し、有力な発信者へアプローチして作られた人工知能です。



Kawa


さてPowerShot Nのこの機能ですが、自分の意図したものでないものが出来てしまう、ここに賛否両論ある訳ですが実はそんな事は大したものではありません。
最大の問題は、そうして作られたものを撮影者側がどう見るかです。


この人工知能は再現性がないようにコントロールされています。同じ所で同じように同じ時間で撮影しても、違う結果が出るように出来ています。もちろんシーンコントロールである程度は再現性はあると思いますが、作成した彼らがないと言い切るくらいにないようです。


Yuki


カメラマンと言うのは偶発性を嫌います。目的と目標が明確だからです。悪い方向の偶発だけは絶対避けたいものです。だから私はお天気に熱心だったりするのですが、完璧と言うのがあり得ない事も知っているのがカメラマンです。
そこを詰めてゆくのが仕事です。でも実は裏で偶然も期待しています。特に人関連ですね。ここはコントロールに限界があります。ファッション系では完璧なシチィエーションを用意しつつも偶然を期待します。スポーツなんて偶然のために自分の技量を高める部門です。それでもある偶然があります。

偶然と言うのはワクワクするものです。カメラマンは実はこれが好物です。普段は真面目腐った完璧主義者ばかりなのですが。


写真を見ると言う命題に戻ります。実は自分がとったものがどうか判断するなかで、自分を客観視出来るかどうかと言うのがあります。その中で種々選択を意思のもとでどう行うのか、写真を撮る行為とその写真を選択する行為が、実は重要なのです。自動化も最後には選択と言う事になります。経済学的用語として、選択がこの場合はいいかもしれませんね。

PowerShot Nは、偶然を自動生成します。ここから出た写真をどう考えるのか。実は写真を撮る以前に難しい、哲学的領域、自己と他者、他者認識、自己肯定、様々なテーマを与えます。

もちろん簡単に使えます。暗い箱から進化した、執事です。使いこなしは最後にあなた。
かなり面白いカメラ・執事です。そして恐ろしい教師です。

選択。この問題は大きいです。


Dsc_5967


別荘にハードディスクを買いました。3Tで1万切ったあたりです。3Tのうち三分の一はパソコンのバックアップ用。マックのタイムマシーンて、あのよくわからないハードディスク占有でこうなりました。
2年前には2T、4年前には1T、6年前には560Gのハードディスクでした。毎回大きな土地に引っ越ししているのですが、あっと言う間に手狭になってしまいます。

これもまた問題です。


カメラマンと写真18

2013-02-11 02:56:13 | 写真の話し
さて光源の話しでとっちらかったが、まずカメラがある。テーマも決めた。被写体も大体決めた。屋外ものなので太陽光とストロボの併用が出来る。さて撮影です。

天候不順とかもあったし、スケジュールミスもあったり、いろいろあります。それでも満足出来る撮影をして帰ります。実際テーマと少し違うがこれが面白そうとか、天気が思ったほどではないけどこんなニュアンスを作れたとか、実際現場では、ちょっと違う事だらけです。それをこなしながらいろいろな手法を使ってテーマに近づくように撮影してゆくはずです。そうしないとせっかく来たのにもったいないですよね。

もちろん見切りをつける事も大切です。ただこの判断はなかなか難しいです。せっかく来たのだからとかあります。ただこうしないと前に進めませんよね。例えば盛岡の桜が見頃だからと遠方から石割桜を見に来ると、品種の都合で葉桜になっています。そうしたらもう石割桜には見切りをつけなければいけません。その上で天気が悪かったらどうしましょうか。市内観光するか近くの温泉に行くのか、イロイロ楽しめます。その中から被写体を捜しながらのロードムービー仕立てに変更するのは可能ですね。
当初に立てたテーマからイメージまで一切合切捨ててしまうのが大切です。今出来る事を考える、これが大切です。

もちろんテーマによっては、葉桜の石割桜でもかまわないのですが。


さてこうして持ち帰った写真ですが、今はデジタルです。その場で見て確認が出来ます。だめだったら捨てる事が出来ます。それはそれでいいのですが、一つだけ問題があります。モニターが小さいのです。ピントの確認等では拡大してみればいいのですが、全体が見えません。
目的と目標が明快な新聞記者とかはそれでもいいのですが、作品を撮るとかだとちょっと厄介です。小さくともだめなものはだめなのですが、ある程度残す必要があります。
方法論としては、Wi-Fi搭載のSDカードとi-Padなどのタブレットと連動させて、撮影データーをタブレット上で確認しながらという事も考えられますが、明るすぎる場所だったりすると判断出来ません。
また現場では撮影に集中するべきであって、確認作業は最低限にするべきだと、考えています。

撮ると言う作業と、見ると言う作業は全く違うものなのです。

撮影と言うのはチャレンジです。被写体に対してテーマがあってもなくとも、あらゆる可能性を追求してゆく場です。ありとあらゆるアイディアから種々選択をしながら撮影し詰めて行きます。一つ一つのアイディアを詰めてゆく時に、デジカメのあの小さなモニターは有効です。ただ最終結果が最善だったとしても、あまり消してはいけません。


さて見ると言う事なのですが、大変な作業です。カメラマンとして重要なのはピントと露出です。これはデジカメのモニターで確認出来ます。ただ大きなモニターでもう一度見なければいけません。なぜなのでしょうか。

自分と向き合うためです。

テーマから被写体から、撮影アイディアから一杯詰まった記憶がよみがえってきます。ただそれは自分の結果であって被写体とか状況の責任ではないはずです。
その中からいい写真をピックアップしてゆくのです。

自分を客観視する必要があります。それが何枚も何枚も見なければいけないのです。実は以外と苦痛です。アナログの時には、以外と「写真」って物だったのですが、モニターが大きくなり、それでいて写真を見るのはモニターで一点ずつです。一瞬見た写真を記憶して次の写真と比較すると言う作業が続きます。

ブラウザーソフト使えばいいだろう?確かにそうです。ただあのサムネイルが荒すぎる事が問題です。あの大雑把感が何とも言えません。そこでサムネイルからダブルクリックでプォトショを立ち上げて大きくして見るとかそういった作業が続きます。

そういった苦行のような作業は意味が無い、と普通は考えます。合理的ではありません。ただ合理的な事が目標の場合確かにそうなのですが、失敗した写真をマジマジと見るということが実は大切です。

なぜ失敗したのか、機材が悪いのか私の腰が悪いのか、イロイロあります。ただ失敗した中に中途半端な写真があったりします。その中で、撮った時にはなんにも考えていなかったが、なぜか別な切り口を作った写真とかそういった物を捜す作業もあります。

なんで引っかかるのか、こういった写真を見つけるのもこの作業の中にあります。

さてこのブログでさんざん引用している言葉ですが、「人は見たい物しか見ない」と言う言葉で、本稿はしばらくお休みします。

いや1月15日まででいったん休憩するつもりだったのが、ネタが多すぎてちょっとさぼっていました。


カメラマンと写真17

2013-01-15 03:13:12 | 写真の話し
さて光源の話しだった。

どんな光源も、エネルギーがあるから光る。熱を使うものは、火の場合激しい酸化作用によるもの。白熱電球は電気を熱に変えて発光している。

これに対して原子物理系は、エネルギーを原子や分子に与えて、発光させると言うものだ。
ちょっと説明がくどくなるが、原子にエネルギーを与えると、電子の挙動が不安定になり、電子がいつも回っている軌道から高い位置の軌道にジャンプする。しかし不安定なのですぐにもとの軌道に戻るのだが、その際原子が得たエネルギーが光になって出てくる。

なので、その原子や分子によって出てくる光の波長が、大体いつも決まったものしか出せないのだ。

基本的に原子物理系の光源には、放電型と固体型がある。

代表が高圧ナトリウム管、高速道路の街頭の黄色だ。これは波長が二つしかない。この光の下では青いものはかなり黒く見える。これはナトリウム原子の特徴なのだ。水銀灯はかなりましだが、青と緑の光ばっかりだ。改良したのに傾向水銀灯と言うのがある。これはナイター照明に使われているが、赤の発色が悪い。

放電型ではネオン管のように封じ込めた気体の中で高圧電気をかけて放電させて発光するものだ。大抵一色しか出せない。キセノン管が例外だが、かなり高圧にする必要があって、連続放電させれば管が加熱してダメになる。

金属原子を使ったものにメタルハライドランプがある。気体として金属のハロゲン化合物を使っている。ナトリウム灯や水銀灯もこれの仲間になる。これも放電系だが、金属原子を組み合わせることで白い光が作られる。最近では車のヘッドライトにも使われているが、欠点はやっぱり、その組み合わせた原子特有のピークがあることだ。最新のはかなりピークがおさえられているが、クセのある光だ。代表がスポットライトのあの色だ。青から緑がやや強い。

放電管から出る紫外線を使ったものが、蛍光灯だ。分子である蛍光物質を管の中にコーティングしたものだ。紫外線で発光するため、若干の紫外線漏れがあったが最近のはかなり無くなっているようだ。特に蛍光物質を多重コーティングした3波長型などはかなり良くなって来ているが、やっぱり波長のピークが強いのがあったりして、きれいに連続していない所がある。
それでも、高演色型とか、写真撮影用・印刷検査用などはかなり良く出来ている。


さて固体型と言えばLEDだ。白色LEDは赤・黄・青の三つの発光体を並べて白く見せたものがあったようだが、これは論外。固体型こそ連続スペクトルなんぞ作れないものだからだ。現在ある白色LEDは蛍光物質と青色LEDの組み合わせが多いようだが、青色LEDの波長に引きずられて、青から緑にかけてなだらかなピークがある。キツイ光に見えるのはこのせいだ。
蛍光物質を使っているとなれば、多分今歌っているLED電球1万時間はかなり難しいような気がする。蛍光物質はそんなに長持ちはしないものだからだ。


さてなにを言いたいのかと言えば、実際こういった光がもうゴジャマゼなんですよ。例えばオフィスの蛍光灯なんて見てみましょう。脇に実は規格が書いているのですが、テンデバラバラということがあります。蛍光灯が切れた時期に応じて変えて行った結果、そうなったようです。印刷会社でも、応接室とか検査室には印刷検査用の蛍光灯を使いますが、オフィスはてんでバラバラというのを目撃した事があります。

さてこれをモールで見ましょう。吹き抜けの高い天井にあるのはメタルハライドランプです。各店舗では蛍光とが実はメインとか、白熱電球とハロゲン電球がゴジャまぜだったりします。最近ではここにLEDが参入して来ています。

私が一番嫌いな光の話しをしましょう。電球色の蛍光灯と、電球色のLED電球です。もうどうしようもない。電球の色を見たのかと本当に言いたくなるあの、あの黄色のピーク。もうあれにどれだけ悩まされて来たのか。

マジメに言いますが、本当にアナログで苦労して、デジタルでもかなり嫌なのがこの黄色。


プアーな光と言いましたが、まあ貧乏人の中に金持ちがいるような、その状態を今直せと言ってもムリ、マルクス呼んで来てもムリと言った具合です。


店舗撮影の時に、光源を見ます。理由はこのゴジャマゼ状況がどうなるのかを考えるためです。ただそれでも難しいのは、人間の曖昧さです。

例えばプロ野球の広島カープの赤ヘルは、ナイターでもテレビでわりと鮮やかに見えます。補正をかけています。しかし肉眼ではくすんで見えるはずです。でも赤は赤ですよね。だから赤く見えます。
実はこの辺りが厄介です。夜に高速道路のナトリウム灯では、本来だったら青い色なんか見えません。それが原因で事故が起きたと言う話しは聞きません。もちろんこの場合は、人は色で判断している訳ではないと、なります。


人の色に対する補正能力が、あまりにも大きすぎるのです。ただピークが強い光源、例えばLEDあたりでは惑わされる可能性があります。

プアーな光の特徴は、ピークがあるから明るく見えるという所があります。例えばナトリウム灯です。ただそれに惑わされて、写真に写ったのが現場と違うとかなりがちです。更にデジタルの時代ではいくらでも補正できますし、カメラも最適な色を作り出しますが、違和感がある光を写真から感じた場合は、光源の波長ピークがイタズラをしているように思います。

写真は光がなければ撮れません。しかし光は多様化しています。特に室内では。