福島第1原発1号機爆発事故
原潜からはじまった
軍事優先の開発
東日本大震災当日の3月11日に炉心溶融(メルトダウン)し、翌12日に水素爆発をおこした福島第1原発1号機は、米ゼネラル・エレクトリック(GE)社が建造したものでした。
2社が独占
日本で商業用原子炉の運転が本格化した1970年代前半に建設された原子炉はいずれも、米国のGEとウェスティング・ハウス(WH)が受注しています。
米国の原子力開発はもともと、原爆開発や原子力艦船の建造といった軍事目的で進められてきました。
商業用原発の実用化が進んだ50年代、米国は54年に世界初の原潜ノーチラスを進水させ、核兵器は53年の1000発から、60年には2万2000発に増えました。
GEとWHは、軍事開発から商業利用にいたるまで原子力開発をほぼ独占的に受注してきました。
両社は米原子力委員会の下で艦船用の原子炉を開発し、アイゼンハワー大統領はWHの加圧水型(PWR)原子炉を採用。米海軍は現在にいたるまでこの型を使用しています。
米国は当初、原子力発電には消極的でしたが、英国とソ連が原発の運転に成功すると路線を転換。急きょ、WH社の原潜用原子炉を陸揚げし、57年にシッピングポート原発の運転を開始しました。同原発の運転は米海軍が主導しました。
一方、GE社はWH社に対抗するため、沸騰水型(BMR)原子炉の開発を続け、59年10月にドレスデン原発で臨界を達成しました。それから数年後に、日本との契約にこぎつけたのです。
構造的な欠陥
軍事的なニーズを発端として、ほとんど駆け足で開発された原子炉には、構造的な欠陥がありました。
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版=3月15日付)によれば、福島第1原発など日本に9基ある『マーク1』型について、米原子力委員会は72年、原子炉の格納容器が小さいことを問題視。水素がたまって爆発した場合、格納容器が損傷しやすいとして「使用を停止すべきだ」と指摘していたのです。
この警告どおり、福島第1で1号機の格納容器が損傷しました。
さらに、福島第1原発で1~4、6号機の開発に関わった東芝元技術者の小倉志郎氏は3月16日、外国特派員協会でこう指摘しました。「GE社の原子炉はそもそも津波を想定しない設定だった。2号機以降は日本で建設したが、1号機の設定が踏襲された」
津波で非常用電源が喪失し、原子炉の冷却機能が失われる危険性は、日本共産党福島県委員会などが繰り返し、警告していたことでした。
日本共産党の吉井英勝議員は5月27日の衆院経済産業委員会で、福島第1原発事故に伴うGE社の製造責任を追及。外務省の武藤義哉審議官は「現在の日米原子力協定では旧協定の免責規定は継続されていない」と答弁し、協定上は責任を問うことができるとの見解を示しました。
主契約企業 運転開始
敦賀 1号機 GE 70・3・14
美浜 1号機 WH/三菱 70・11・28
福島第1 1号機 GE 71・3・26
福島第1 1号機 GE/東芝 74・7・18
故・湯川秀樹 京都大名誉教授
湯川氏 抗議の辞任
原子力協定の攻防
「本件発表は慎重を要する」。外務省の解禁文書(1955年3月18日付メモ)にある『本件』とは、同年1月11日、米国が日本政府に示した、対日原子力援助に関する口上書のことです。
アイゼンハワー大統領が提唱した『原子力の平和利用』政策の具体化として、濃縮ウランや原子炉の提供が盛り込まれました。井口貞夫駐米大使はただちに、「日本においても推進するとの建前をとること内外共に時宜を得たる」(55年1月25日付公電)との見解を示します。
しかし、『朝日』同年4月14日付で暴露されるまで、口上書の存在は極秘扱いでした。「原子炉建設に関する米国の協力に対する一部学界の反対ないし原子力問題に関する敏感な一般世論に無用の刺激を与えることを避けるため」(前出メモ)という理由からでした。
自主・民主・公開
『科学者の国会』と言われる日本学術会議は、第五福竜丸事件が明らかになった直後の54年3月18日の原子核特別部会で、後に科学者9条の会発起人になった伏見康治氏らが提案した『自主・民主・公開』の原子力研究3原則を決めました。
ところが、原子力協定の米国案9条に『動力用原子炉(原発)についての協定が行われることを希望しかつ期待し、その可能性について随時協議する』との規定がありました。
濃縮ウランも、原子炉も米国産。しかも、米原子力法に沿って機密保護まで求められていたのです。『自主・民主・公開』の3原則に真っ向から反する内容でした。
財界は米国からの原子炉購入を強く主張しましたが、政府は9条の削除と機密保護条項の適用除外の要請を決断。「動力用原子炉に関する日米間協定の実施から独占的米国資本の導入を誘致し、またわが方の学術的研究の自主性を毀損する恐れある云々との有力にしてかつ多分に感情的なる意見をも考慮」(55年6月7日、井口大使宛て公電)
慎重でなければ
55年11月、原発建設を前提としない『日米原子力研究協定』が調印されました。
自立的な原子力研究が担保されたかに思われましたが、初代原子力委員長に就任した正力松太郎氏は56年1月4日、「5年後に原発建設、米国と動力協定の締結」構想を発表しました。14日には米原子力委員会のストローズ委員長が『正力構想』に対する異例の『歓迎』声明を出しました。56年末には原子力協定見直し作業が始まります。
これに抗議して原子力委員を辞任したのが、日本人初のノーベル賞受賞者の物理学者・湯川秀樹氏でした。湯川氏は辞任直前、こう訴えました。「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」(『原子力委員会月報』57年1月号)
しかし、原子力委員会は歴代自民党政権に牛耳られ、安全性を二の次にした原発推進機関に変貌してしまいました。
(つづく)