ヒデ系の瞳

平和憲法尊守

安保が分かれば、世界が見える ③

2012-06-09 | 安保が分かれば、世界が見える
安保が分かれば、世界が見える ③

第3回 沖縄と基地を考えよう

はじめに

 今年2012年は、沖縄県が日本本土に復帰して40年目の年に当たります。皆さんの中には、「えっ?沖縄ってもともと日本の一部じゃなかったの?」とそう思われる方もいるかもしれません。また、美しい珊瑚の海に憧れて沖縄を訪れた方の中には、あちこちに存在する米軍基地や、繁華街で米軍兵士の姿などを見かけて戸惑う人もおられるかもしれません。
 そこで今回は、日米安保条約と沖縄の関係について、ちょっと歴史を振り返りながら述べたいと思います。

1・本土進攻に対する「捨て石作戦」の犠牲に

 アジア・太平洋戦争末期の1945年3月、米軍は50万人以上の軍隊を引き連れて、沖縄に侵攻しました。
 このとき、日本軍は県民を避難させて安全をはかることはせず、逆に住民を戦力と化して、できる限り日本本土での「本土決戦」を長引かせるための「捨て石」にしました。
 現地第三二軍の司令官である牛島満中将は、その死に際して「悠久の大義に生きるべし」として、住民が降伏または投降することさえも許しませんでした。
 この結果、軍人と行動を余儀なくさせられた住民の中には、手榴弾で「集団死(自決)」をはかるものも出たり、また日本軍兵士から「スパイ容疑」で虐殺されるものも出ました。実に県民の4人に1人という膨大な犠牲者が出たのです。

2・戦後は「太平洋のキーストーン」として

 1945年8月15日の日本の降伏後も、沖縄に平和な時代は訪れませんでした。
 日本が連合国に降伏する前から、米軍はかつての日本軍の飛行場などを接収し、戦後のアジアにおける世界戦略の一角として利用しようとしました。
 その後、連合国とのサンフランシスコ講和条約(ソ連、中華人民共和国は調印せず)が発効した後も、沖縄の「施政権」は米国政府が保有し、県民の諸権利は引き続き制限されました。沖縄県民の行政機関である「琉球政府」は、その上に君臨する米国民政府の指揮下におかれ、立法・行政・司法の3つの権利は事実上、米国民政府の制約下におかれたのです。県民は、米軍兵士による事件・事故に対して無権利のまま、泣き寝入りの状況でした。
 一方で、日本本土から米軍の海兵隊が移駐してくるなど、本土の反基地闘争によって米軍の存在が脅かされるような状況になると、そうした部隊を沖縄に置くように米軍の判断も変化していきました。

3・祖国復帰闘争と沖縄、日米安保

 こうした事態に対して、沖縄県民は決して手をこまねいていた訳ではありません。
 1960年に結成された「沖縄県祖国復帰協議会」は、沖縄人民党(後に日本共産党に合流)、沖縄社会大衆党、沖縄社会党など党派を超える団体・勢力が参加し、日本本土での沖縄返還をめざす運動と共闘し、内外で祖国復帰の運動を盛り上げていきました。
 これに対し、日米両国政府は、沖縄の施政権返還後も核兵器の持込を認める「核密約」の取り決めをおこなう、また米軍によって基地として使用された土地の整備費用を、米国でなく日本政府が負担するという形にするなど、その姿勢は極めて不誠実なものでした(この経緯は、TBS系テレビドラマ『運命の人』などでも一部が紹介されましたので、ご存知の方もいるでしょう)。
 たいへん残念なことに、沖縄の米軍基地撤去と、即時無条件返還を求める運動は、国会における与野党の力関係などにより、十分な成果を得ることができず、復帰後も全米軍専用施設の75%が存在する状況は今も変わっていません。

安保条約 第六条
 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
 前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、一九五二年二月二八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(改正も含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。

4・本土復帰後も安保条約第六条に基づく「日米地位協定」のカベが・・・。

 沖縄では、こうした状況の中で、復帰後も米軍による事件・事故が絶えませんでした。
 米軍兵士がひき逃げを起こしても、それが公務中であれば裁判権は米軍側に移ってしまう、また、女性に対する暴行事件を起こしても、基地に逃げ込んだ後で本国に逃げ帰ってしまう、など、県民の権利は無視されてきました。
 これらの問題の根源には、日米安保条約に基づいて締結された日米地位協定がありました。

日米地位協定
 正しくは、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協定及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」といいます。

 地位協定は、1951年に締結された旧安保条約締結の際にむすばれた「日米行政協定」を手直ししたものでした。安保条約第六条は「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する」と定められており、そこでは、日本国内における米軍兵士の特権的な地位を認め、その立場を保障するというものでした。その結果、刑事事件の容疑者が米軍兵士であった場合、基地の中に逃げ込めば日本の司法権が及ばない、などの事態が起こりました。
 そして1995年9月、沖縄では駐留している米国海兵隊の兵士3名が小学生に集団で暴行するという事件が発生しました。
 しかし、米軍側はこのとき、容疑者が沖縄県警の再三の引渡し要求を受けても容疑者の引渡しに応じませんでした。このときも、米軍が引き渡しに応じない口実として、日米地位協定第一七条五項Cがその理由とされました。

日米地位協定第一七条五項C
・・・条文は以下の通り。「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする。」(外務省訳)

 こうした対応に怒った県民は、1995年10月21日に超党派で県民総決起大会を開催し、8万5千人が参加しました。慌てた日米両国政府は、同年秋に予定したクリントン米国大統領の日本訪問を中止し、また日本政府は地位協定の運用の改善などを約束しました。そして、翌1996年4月には、橋本・クリントン会談で「普天間基地の5~7年後までの」「返還」がうたわれました。

5・普天間移設の挫折と政権交代

 しかしながら、その後の日米合意では、普天間基地の無条件の撤去ではなく、名護市辺野古への「移設」が条件として掲げられていました。この条件付「返還」合意に対して、名護市民は反発しました。そして辺野古受け入れを決めた当時の名護市に対して、1997年12月に名護市民は住民投票で「反対」の声を突きつけました。
 これに対して、日米両国政府は名護市民の声を無視する形で、辺野古でのボーリング調査を強行しようと何度もはかりました。しかし、名護市民の非暴力の抗議行動に阻まれ、クイ打ち一つできない状況が今日も続いています。
 その後、名護市長選での移設反対派の勝利、2009年の総選挙での県内移設を主張する自民・公明の候補者の落選など、沖縄の米軍基地移設をめぐる県内の政治状況はがらりと変化しました。
 総選挙で勝利した民主党は、社民党、国民新党とともに辺野古移設を含む「日米合意の見直し」を掲げました。さらに、自民・公明の支持を受けている保守系の仲井真沖縄県知事も、普天間基地の県内移設に反対を表明せざるを得ない状況が生まれています。
 自公政権から民主党を中心とした鳩山内閣の成立などで、日米間の沖縄をめぐる「密約問題」についてもようやく光が当てられ、また沖縄の米軍基地問題が抱える様々な問題も、本土で報道される機会が増えました。
 しかしながら、日米地位協定はまだ抜本的な改定はなされず、沖縄に駐留している海兵隊の撤退は実現されていません。鳩山政権後、菅そして野田内閣は、「安保絶対化」から抜け出そうとせず、日米間の軍事一体化を推し進めています。また近年では、米軍が引き続き「太平洋国家」として、アジア地域に関わろうとする動きも出てきています。沖縄県北部の東村では、米軍がヘリパッド基地を作ろうとする動きも強まっています。
 5月15日には、沖縄の施政権が返還された日です。
 美しい海や珊瑚に憧れて皆さんが訪れる沖縄には、やはり軍事基地は似合いません。あなたの好きな美しい沖縄が、金網のない真に平和な島となるためにも、いまこそ沖縄の平和を脅かしている安保条約についてもっと学び、その危険性を国民的規模で語り伝えていこうではありませんか。
【学習の友 6月号】(みね りょういち/国際政治問題研究者)

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