佐々木俊尚の「ITジャーナル」

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あの光通信が急成長を遂げている

2005-02-09 | Weblog
 光通信が昨年来、急激に復活してきている。ネットバブル時代にその名を轟かせた、あの重田康光氏が率いる光通信である。

 光通信は1990年代、携帯電話販売店「HIT SHOP」の全国展開で一躍有名になり、96年には史上最年少の31歳で株式を店頭公開した。急成長を続けて最盛期の2000年初頭には株価が24万1000円にまで達し、時価総額は7兆4445億円。その前年には米経済誌「フォーブス」に、250億ドル(約2兆6000億円)の個人資産を持つ世界第5位の富豪として紹介されるまでになった。マイクロソフトのビル・ゲイツ会長と同じランキングだったというから、驚かされる。

 この時代には経済誌や起業家向けの雑誌に重田氏の名前が出ない月はないというほどで、「情報通信ベンチャーの雄」「変化対応型スピード経営を実践する若き経営者」「史上最年少で株式を店頭公開」「世界最速で稼ぐ男」と、ありとあらゆる賞賛が集中した。ソフトバンクの孫正義社長にならってベンチャーキャピタルも設立し、膨大なカネをネットベンチャー業界へと流し込んだ。光通信から出資を受けた会社は「ヒカリモノ」などと呼ばれた。今をときめくライブドア(当時のオン・ザ・エッヂ)やサイバーエージェント、インテリジェンスなどはみんなヒカリモノだったのだ。

 ところが株価が最高値を更新した直後の2000年3月、月刊文藝春秋の報道によって携帯電話の「寝かせ」疑惑が発覚してしまう。携帯キャリアから支払われるインセンティブを受け取るため、大量の携帯電話架空契約を代理店が行っていたというものだ。

 いったん批判が始まると、袋だたきになってしまうのは日本のマスコミの常。情報紙や怪文書などで「すでに死亡した」「国税が重田を追っている」「東京地検が捜査を開始した」といった噂が広まり、ある夕刊紙は「重田が都内のホテルで証券取引等監視委員会(SEC)の事情聴取を受けた」とまで報じた。もちろん、とんでもない誤報である。

 おまけにこの疑惑を釈明するために開いた会見で、重田氏は「業績は順調で、決算は予定通りに達成できる」と胸を張ってしまった。実はこのコメントは真っ赤な嘘で、二週間後には同社の中間決算が発表され、従来予想の60億円黒字から130億円赤字に転落していたことが明らかになってしまうのである。

 ますます袋だたきはひどくなり、光通信の株価は暴落の一途をたどった。わずか3か月後には株価は3600円にまで落ち、最高値の67分の1になってしまった。

 すでにネットバブルは過熱気味で、いずれにせよいつかは崩壊するしかなかった。だが光通信のこの騒動が、バブル崩壊の引き金になったのは間違いない。そうして重田氏は袋だたきに遭い、表舞台から姿を消していったのである。本社も豪華な大手町野村ビルから撤退し、南池袋線路際の築47年のオンボロビルに引っ込んだ。いつしか光通信が、人々の話題に上ることもなくなった。

 ところがここに来て、光通信が急成長を遂げている。事業のメインは、HIT SHOPでもベンチャーキャピタルでもない。HIT SHOPは全盛期の2000店舗から、460店舗にまで縮小している。ベンチャーキャピタルもネットバブル時は1000億円以上を投資していたのが、すでにほとんどの株を売却し、カネを引き上げてしまっている。

 では光通信の今のビジネスがなんなのかと言えば、シャープのコピー機代理店と、保険の販売なのである。

 シャープのコピー機はHIT SHOPを始める以前から代理店業を務めていてトップディーラーになっていたのだが、市場に成長が望めず、あまり力を注いでいなかった。そしてネットバブル崩壊後、この分野を立て直すことにし、法人事業本部という部署を新たに作り、携帯電話ビジネスの責任者だった玉村剛史氏をトップに据えたのである。この方策が当たり、コピー機のリース販売は年間1000台から4000台にまで増えた。

 2002年からは、保険にも乗り出した。生命保険、傷害保険に次ぐ第三分野保険と言われる医療保険、ガン保険などの販売である。これまで保険のオバチャンの対面営業がメインだった保険の世界に、光通信は創業のころから得意としていたテレアポ営業で参入し、売上を倍々で増やしている。

 光通信の広報担当者は、こんな風に解説する。

 「本来の光通信の強みはプッシュ型の手法で、つまりどんどん勝負に出て行く攻めの営業だった。ところが携帯電話のHIT SHOPはとにかく店をたくさん出すことだけが優先された。店ごとの販売力よりも、面としての展開を重視したからだ。営業そのものはただ店の中で客を待ち受けるというネガティブな手法に終始した。いったん店舗を開いてしまったら同業他社とは差別化しづらく、長い期間にわたって優位を持続させるすべを持っていなかった」

 そのことにようやく気づいた光通信は、もともとの本業に回帰し、積極的な攻めの営業ができるコピー機や保険へと主力を移していったということなのだろう。

 重田氏が、どう考えても得意とは思えない投資ビジネスに傾斜していったのは、1999年にソフトバンクの社外取締役に就任してからである。このころから彼は孫社長の「時価総額極大化経営」に影響を受け、「株主価値の極大化を目指す」と盛んに言うようになる。孫社長は時代を切りひらいていく人物であるのは確かだが、同時に稀代のアジテーターでもある。孫社長のビジョンに呑み込まれてしまい、重田氏はみずからを見失ってしまっていたのではないだろうか。

 ネットバブル崩壊からのこの4年間は、重田氏にとっては自分を取り戻すための4年間でもあったのかもしれない。

 光通信社内ではネットバブル後のリストラの最中、こんな替え歌が宴会でよく歌われていたという。KANの「愛は勝つ」の替え歌である。

 <どんなに困難でくじけそうでも 信じることさ 必ず法人グループ勝つ 信じることさ 必ず最後に『光』勝つ>