佐々木俊尚の「ITジャーナル」

佐々木俊尚の「ITジャーナル」

世の中の事象をコンピュータ上で可視化する手作業

2005-11-28 | Weblog
 前回の続きをもう少し。

 世の中にある事象は、デジタル化しただけでは使えない場合も多い。美崎さんの例で言えば、本をスキャンしてデジタル化し、画像として保存しても、そのままでは再利用は難しい。検索ができないからだ。検索ができるようにする――つまり可視化するためには、テキスト化するか、もしくはアノテーションやタグを付加する必要がある。

 これは考えてみると、実のところの私の取材にも同じことが起きている。

 取材にはいつも、ノートブックパソコンとICレコーダー2台を持って行く。インタビュー中はICレコーダーで録音しながら、ノートブックパソコンで相手のしゃべっていることばを同時タイプしていく。このタイプがうまくいけば、デジタル化と可視化が一気に行われることになって、その後原稿にするのにとても便利だ。

 だが相手のしゃべり方が非常に速かったりすればタイプが追いつかないときがある。また、非常に微妙な取材(たとえば対決的な取材だったり、相手が話したくないことを無理矢理引き出したりするようなとき)の場合には、パソコンに向かってタイプすることをはばかられる場合もある。

 そんなときはICレコーダーの録音が役に立つ。

 新聞記者時代には、テープでの録音は特別な場合を除けば、基本的には行っていなかった。会社から支給されている小型のメモ帳にひたすら書きまくるか、あるいはそれさえ許されない場合は、必死で頭の中に記憶した。それさえ許されないというのはどういうときかといえば、刑事などへの夜回り取材の場合だ。お互いの信義があるから、録音どころかメモ取りさえいっさい行わない。相手が重要かつ長い話をしてくれたときには、勧められる酒も上の空で必死で頭の中に焼き付け、トイレに立った時などに便器に座ったままで必死でメモ帳に書き起こしたりした。

 まあでもこれはある種の文化、風習のようなものである。日刊のメディアである新聞には「その日暮らし」的風土があり、あまりまどろっこしいことは好まれないのだ。

 月刊誌や書籍などの取材の場合には、当然のように録音が行われる。かつてはカセットテープが主流だったが、あとから管理がたいへんだった。九〇年代後半からはMDも登場して音質は向上したが、メディアの管理が面倒なことはかわりがなかった。

 しかし2000年ごろからICレコーダーが急激に普及し、多くのライターが使うようになった。かつてはメモ帳が主流だった新聞の世界でさえそうで、自民党本部前のぶら下がり取材などでは、政治家の前にたくさんのICレコーダーがマイクのように突きつけられるようになっている。ICレコーダーの場合、データはパソコンのハードディスクに転送できるから、日にちと取材対象をファイル名につけておけば、管理も容易このうえない。

 だがテープがデジタル化されてファイルになっただけでは、当たり前だけれど使いにくい。やっぱり録音の内容をテキストに起こす作業が必要になり、この作業にかかる時間はテープのころとあまり変わらない。パソコンの場合は書き起こしキーなどが使えるから若干は楽になったとはいえ、それでも1時間の録音をテキストに起こそうとすると、2時間から3時間はかかってしまう。書籍の取材などで6時間ぐらい話を聞いていたりすると、テキスト化の手間を考えただけで絶望的な気分になる。

 そこで最近は、量の多いものに限っては、テキスト興しを外注に出している。1分20円から30円程度。1時間の録音だと、1万2000円から2万円程度かかる。高いか安いかは費用対効果の問題があるから一概には言えないけれど、美崎さんは書籍のスキャニング費用として「1ページ10円で外注に出している」と言っていた。ほぼ同じスケールの金額といえるかもしれない。

 テキスト化ではなく、タグやアノテーションを付加するのにもやはり人力が必要だ。フォークソノミーなどはそれをひとりの力でなく、多くの人の助けをやってしまえば楽になるという考え方による試みだけれども、やっぱり人手がかかることには代わりはない。

 結局のところ、世の中の事象をコンピュータ上で可視化するためには、どこかで必ず人手を加えることが必要になってしまっている。Google Newsがアルゴリズムによる完全自動化で編集者をなくしたのと同じように、この部分の手作業を自動化するすべはないのだろうか。