前回のエントリーに関して、トラックバックでひろゆき氏などから疑問をいただいた。本ブログにはコメント欄がないので、このエントリーでお答えしておこうと思う。
どうやらわたしの書き方が悪かったようだ。前回のエントリーで「もちろん、2ちゃんねる運営側は書き込み者のIPアドレスを捜査当局に提供しているから、本人特定は不可能ではない」と書いたが、これは一般論としての話を書いたつもりだった。今回のWinny事件について、IPアドレスが2ちゃんねるから警察当局に提供されているかどうかについては、私個人としては今のところ確認していない。お詫びしたい。
2ちゃんねる上で「殺人予告」などを書いた者が逮捕されるケースは少なくないが、この種の事件では2ちゃんねるは、IPアドレスを捜査当局に提供している。これは私自身が以前、ひろゆき氏からも直接取材でお聞きしたと思う。一般論としてのそういう事実を書きたかっただけである。
それから、少し余談を。
この件で、トラックバック先の「miamoto.net」さんから、以下のようにご指摘いただいた。
「もし検察側から佐々木さんが直接聞き出したのであれば、応酬した資料を検察側が捜査目的以外に使用したことになる。何にせよ開示されるべきではない情報がリークされたことになるので、検察側に職権乱用ぽい行為があったことになる」
検察などの当局から直接内部資料を聞き出すという行為を批判されているのだが、もしこうした行為が違法、あるいは倫理に反する行為であると指弾してしまうと、ジャーナリズムの根幹から崩れてしまうことになる。もちろん、地方公務員法などに違反するケースがあるのは事実だが、結局のところジャーナリズムのエッジの部分というのは法律違反にスレスレのところで成り立っている。それを「法律に違反しているから悪い」というのであれば反論しようもないが、しかしことはそう単純ではないようにも思う。
取材というのは、必ずしも記者発表会への出席や広報経由のインタビューだけで成り立っているわけではないことを、理解していただければと思う。当局や企業が開示するべきではないと考えている情報、あるいは開示したくないと考えている情報をあの手この手で何とか引っ張り出し、白日のもとにさらけだすというのは、ジャーナリズムの王道のひとつだと思うのだ。
ただこうした取材の場合、往々にしてニュースソース(取材源)は匿名にならざるを得ない場合が多い。夜中であれば親しく話し込めるような関係のニュースソースであっても、昼間に霞ヶ関でばったり出くわしてしまったときには、お互いにそしらぬ顔をする――そういう関係に基づく取材なのだ。向こうは公務員の守秘義務違反や、あるいは個人情報保護法に違反することを承知の上で、でも「この話は外部に知らせるべきだ」という何らかの倫理をもって情報を取材者に流している。中には金銭目当てで情報を漏洩させているインサイダーもいないわけではないが、わたしの知る限り、たぶん多くのインサイダーは、カネではなく社会正義や倫理性、あるいは取材者との人間関係に依って情報を渡しているように思う。
しかし匿名ニュースソースをもとに書いた記事が、その匿名性がゆえに信憑性を疑われることもある。中には「ニュースソースが匿名である」というのを隠れ蓑に、ほとんどデッチアゲに使い原稿を書き散らしているライターや記者もいたりするから、話はややこしい。
そういえば新聞記者として警視庁を担当していたころ、さまざまな事件について週刊誌からの内々の取材を受けることがよくあった。週刊誌記者だと、記者クラブ制度の壁のせいでなかなか警察当局の奥の院にまでは近づけない。しかたなく警視庁記者クラブなどに所属している新聞記者に接触し、情報を教えてもらうというスタイルが定着しているのだ。さて、そうやって週刊誌記者に会い、特定の事件についてあれこれ話をしてあげるとする。翌週の発売日になって該当の記事を読んでみると、私の話した内容が「警察関係者」「全国紙社会部デスク」「捜査当局幹部」と3人の匿名の人物に分けて書き分けられていたりした。情報源が少ない中で、何とか記事のふくらみを持たせようと苦心した挙げ句なのだろうけれど、しゃべった側としてはなんとも複雑な心境だった。
そうした記事が少なくないから、匿名ニュースソースの記事に対する信頼性がだんだん失われていってしまう。おまけにご存じのように、アメリカでは匿名の情報源を開示するように裁判所が命令を出し、挙げ句の果ては大手メディアの記者が収監されるという前代未聞の事態にまで発展してしまっている。
なんともやりにくい時代になったものだと思う。しかしまあそれは、メディアの側の自浄努力が足りなかったことも大きいから、自業自得といえばそれまでかもしれない。しかし、それにしても――。
私はかつてアスキーという会社に勤務し、ウェブのニュース媒体に記事を書いていた時期もある。匿名、実名、さまざまなニュースソースから集めた情報をもとにインサイドレポート的な記事を書くことが多かったのだが、そうした記事に対して社内のネットワーク技術者から「こんなものはニュースじゃない」と激しく批判されたことがあった。その技術者の主張では、「ニュースというのは記者発表会などで発表された内容を、できるだけ正確にそのまま載せること」だそうなのである。
出版社で働いているのにもかかわらず、こういう発言を平気でできる人物がいることに私は当時、本当に心の底から驚いたのだが、インターネットの世界ではこうした考え方の人はひょっとしたら、意外と少なくないのかもしれない――最近、そう思うようになってきた。
インターネットの世界ではジャーナリズムはまだ黎明期なのだろうか。それともひょっとしたら、すでに終焉を迎えてしまっているのだろうか。いやそもそも、ジャーナリズムが必要とされているのどうかから、議論しなければならないのではないだろうか。
どうやらわたしの書き方が悪かったようだ。前回のエントリーで「もちろん、2ちゃんねる運営側は書き込み者のIPアドレスを捜査当局に提供しているから、本人特定は不可能ではない」と書いたが、これは一般論としての話を書いたつもりだった。今回のWinny事件について、IPアドレスが2ちゃんねるから警察当局に提供されているかどうかについては、私個人としては今のところ確認していない。お詫びしたい。
2ちゃんねる上で「殺人予告」などを書いた者が逮捕されるケースは少なくないが、この種の事件では2ちゃんねるは、IPアドレスを捜査当局に提供している。これは私自身が以前、ひろゆき氏からも直接取材でお聞きしたと思う。一般論としてのそういう事実を書きたかっただけである。
それから、少し余談を。
この件で、トラックバック先の「miamoto.net」さんから、以下のようにご指摘いただいた。
「もし検察側から佐々木さんが直接聞き出したのであれば、応酬した資料を検察側が捜査目的以外に使用したことになる。何にせよ開示されるべきではない情報がリークされたことになるので、検察側に職権乱用ぽい行為があったことになる」
検察などの当局から直接内部資料を聞き出すという行為を批判されているのだが、もしこうした行為が違法、あるいは倫理に反する行為であると指弾してしまうと、ジャーナリズムの根幹から崩れてしまうことになる。もちろん、地方公務員法などに違反するケースがあるのは事実だが、結局のところジャーナリズムのエッジの部分というのは法律違反にスレスレのところで成り立っている。それを「法律に違反しているから悪い」というのであれば反論しようもないが、しかしことはそう単純ではないようにも思う。
取材というのは、必ずしも記者発表会への出席や広報経由のインタビューだけで成り立っているわけではないことを、理解していただければと思う。当局や企業が開示するべきではないと考えている情報、あるいは開示したくないと考えている情報をあの手この手で何とか引っ張り出し、白日のもとにさらけだすというのは、ジャーナリズムの王道のひとつだと思うのだ。
ただこうした取材の場合、往々にしてニュースソース(取材源)は匿名にならざるを得ない場合が多い。夜中であれば親しく話し込めるような関係のニュースソースであっても、昼間に霞ヶ関でばったり出くわしてしまったときには、お互いにそしらぬ顔をする――そういう関係に基づく取材なのだ。向こうは公務員の守秘義務違反や、あるいは個人情報保護法に違反することを承知の上で、でも「この話は外部に知らせるべきだ」という何らかの倫理をもって情報を取材者に流している。中には金銭目当てで情報を漏洩させているインサイダーもいないわけではないが、わたしの知る限り、たぶん多くのインサイダーは、カネではなく社会正義や倫理性、あるいは取材者との人間関係に依って情報を渡しているように思う。
しかし匿名ニュースソースをもとに書いた記事が、その匿名性がゆえに信憑性を疑われることもある。中には「ニュースソースが匿名である」というのを隠れ蓑に、ほとんどデッチアゲに使い原稿を書き散らしているライターや記者もいたりするから、話はややこしい。
そういえば新聞記者として警視庁を担当していたころ、さまざまな事件について週刊誌からの内々の取材を受けることがよくあった。週刊誌記者だと、記者クラブ制度の壁のせいでなかなか警察当局の奥の院にまでは近づけない。しかたなく警視庁記者クラブなどに所属している新聞記者に接触し、情報を教えてもらうというスタイルが定着しているのだ。さて、そうやって週刊誌記者に会い、特定の事件についてあれこれ話をしてあげるとする。翌週の発売日になって該当の記事を読んでみると、私の話した内容が「警察関係者」「全国紙社会部デスク」「捜査当局幹部」と3人の匿名の人物に分けて書き分けられていたりした。情報源が少ない中で、何とか記事のふくらみを持たせようと苦心した挙げ句なのだろうけれど、しゃべった側としてはなんとも複雑な心境だった。
そうした記事が少なくないから、匿名ニュースソースの記事に対する信頼性がだんだん失われていってしまう。おまけにご存じのように、アメリカでは匿名の情報源を開示するように裁判所が命令を出し、挙げ句の果ては大手メディアの記者が収監されるという前代未聞の事態にまで発展してしまっている。
なんともやりにくい時代になったものだと思う。しかしまあそれは、メディアの側の自浄努力が足りなかったことも大きいから、自業自得といえばそれまでかもしれない。しかし、それにしても――。
私はかつてアスキーという会社に勤務し、ウェブのニュース媒体に記事を書いていた時期もある。匿名、実名、さまざまなニュースソースから集めた情報をもとにインサイドレポート的な記事を書くことが多かったのだが、そうした記事に対して社内のネットワーク技術者から「こんなものはニュースじゃない」と激しく批判されたことがあった。その技術者の主張では、「ニュースというのは記者発表会などで発表された内容を、できるだけ正確にそのまま載せること」だそうなのである。
出版社で働いているのにもかかわらず、こういう発言を平気でできる人物がいることに私は当時、本当に心の底から驚いたのだが、インターネットの世界ではこうした考え方の人はひょっとしたら、意外と少なくないのかもしれない――最近、そう思うようになってきた。
インターネットの世界ではジャーナリズムはまだ黎明期なのだろうか。それともひょっとしたら、すでに終焉を迎えてしまっているのだろうか。いやそもそも、ジャーナリズムが必要とされているのどうかから、議論しなければならないのではないだろうか。