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高須芳次郎著『水戸學精神』第九 藤田東湖の思想と人物  (七) 政治經濟方面に主力を注ぐ  ~ (十) 東湖の著作生活と教育事業  (十一) 外交國難の解決へ

2022-09-01 | 茨城県南 歴史と風俗

   高須芳次郎著『水戸學精神』     
   


 
第九 藤田東湖の思想と人物  
  

(七) 政治經濟方面に主力を注ぐ    
 殊に東湖に至っては、父幽谷の家學を継承したのであるから、夙に政治経済方面に留意し、時代にふさはしい施設を為さうとした。かういふ風だから、東湖は烈公を翼賛して、他藩では、容易に行ひ得ぬ改革を一氣に實現し、また時代に先駆した新施設をも行した。その主力を注いだところは、
 (第一) 經済上の#理と救賞
 (弟二) 國防充實
 (第三) 風教刷新などである。


 先づ經濟方面の事についていふと、天保十一年(1840年)、烈公は、藩士の經濟窮乏に同情し、彼等に貸し出した金穀は新旧一切、棄損することとした。また藩府以外の人から借りた 金は、この年、封祿の半分を出して返還の一部に充當させ、爾後は、年々少しづつ、債務を償却してゆくやう說論した。

 

 それから水戸藩では、農民生活について同情し、貧農を救ひ出すために、特に田畝の境界を正しくすることに力を注いだ。元来水戸藩の田畠は、寛永の末、威公が丈量検定定をした儘、二百絵年を經たので、昔、上田だといはれたものも今は下田となってゐるに拘らず、やはり、昔の儘の上田としての租税を収めしむるといふ矛盾があった。
 中でも、一番弊害が多かったのは、富農が貧農を圧迫して、土地買入の際、十石の収穫あるものも唯三四石に相當する收横あるものとして買入れることだった。この場合、富者は 唯三四石に相當する租税を納め、他の六七石に相當する租税は、貧農の手で收めねばならぬといふ弊を生じてゐた。


 烈公は、右のやうな事情を察して、貧者を憫れみ、田畝の境界を正しくすることに努めたのである。その結果、貧農は大分、助かった。それらについては、やはり、東湖の『常陸带』の中に詳しく書いてある。

 

(八) 烈公の奇禍と東湖の憂憤  
 かく烈公の政治刷新は、東湖の補佐、獻策に待つところが多く、「水戸には東湖がゐる」といふので、四方の名士は東湖を訪ふためにわざわざ水戸に來たものも少くない。 西鄕南洲(文政十年〔1827年〕~明治十年〔1877年〕)・横井小楠(文化七~明治二)等も、やはり、さうした人々の中にあった。

 

 小楠が吏洞に會ったのは、御用調役の時代で、『遊學雑誌』のうちに東湖の風采を素描して、「年三十八歲(當時三十五歳)色黒の大男、中々見事也」といひ、眼光爛々と光って、人を圧するやうな威力を備へてゐたといひ、更に「辯舌爽やかに議論甚だ密、應接極めて神速也」といった。また服装については、「布の肩衣、奈良の帷衣、其の袴、脇差は鐵金具にて、木綿糸を卷き、鞘は皮包也」と書いてゐる。

 

 それから大西郷が東湖を訪うたのは、晩年(四十九歳)の頃で、西鄕は當時、二十八歳だった。かく年齡の上に父子ほどの差があったから、西郷は、最初から東湖を先輩として敬ひ、東湖は西郷を將來望多き人物として歓待した。そして西鄕が將に東湖のもとを辞し去らうとしたとき、東湖は「ちと本を讀まれてはどうか」と注意した。西鄕はこの忠告に心を動かし、再び座敷へ上つて、「今後讀書につとめますから御指導願ひたい」と懇請した。こんな風に、西郷は、始終、東湖に師事する態度を執り、「天下眞に畏敬すべきは東湖先生だ」と友人に語ったといふ。

 

 時に、茲に東湖の生涯にとっての大きい打撃が起った。それは、烈公の急進主義が幕府の誤解を受けて、譴責されたことである。そのため、烈公は封を世子(順公)に譲って謹慎した。これは、烈公の全く豫期しないところで、烈公としては、胸中、少からぬ不滿があったことと思はれる。

 

 蓋し烈公は左視右顧することをしないで、政治改革については、眞に思い切った遣り口を示した。その中でも、佛敎界を淸めるために堕落僧を一掃したり、或は寺院を破却したりしたことが、佛僧の憤激と呪詛とを招き、それが幕府に向つて烈公を讒言する一主因ともなった。それに烈公の爲すところは、幕府の意表に出て、追烏狩の名目で、旺んに陸軍大演習をした事なども、物騒だとして、幕府の忌むところとなったのである。

 

 當時、幕府常局は七ヶ條の訊問を烈公に突き付け、その理由を詰った。それについて水戸の元老、中山備後守から、明快に幕府に辯解したけれども、當局は聞き入れない。疑惑の眼で、じっと烈公を見つめてゐた。

 

 當時、烈公が幕府の召命に應じて、江戸へ出るとき、東湖に隨行を命じた。東湖は病中であったが、ぢっとしてをられず、決死の覺悟で、高熱に惱みながら、烈公に從って江戶へ出た。

 その時分、東湖は、幕府の詰問が當を得ないので、自刃して、公の冤罪を雪がうと迄思ひつめたことがある。か、さうすると、却って幕府の疑ひを深めることとなるかも知れぬと思ったので、漸く思ひ留った。

 

(九) 東湖の幽囚生活     
 間もなく、東湖は、烈公の奇禍に伴うて、幕府から睨まれ、免職、蟄居(江戸藩邸内で)を命ぜられた。のみならず、幕府はなほも迫害の手を東湖の上に伸ばし、その年 (弘化元年〔1844年〕)九月祿を奪って、僅かに十五人扶持を賜ることとした。且つ水戸の邸を取り上げ、新たに竹隈町に蟄居屋敷を下附した。東湖は悲憤して、「回転詩史」を書き、その不平を爆發した。常時の日記を見ると、

 明七ッ時、御厩前の邸舍へ豐、門を堅く閉ぢて家居す。

とある。この厄に逢った同志に戶田蓬軒がある。蓬軒も亦免職、蟄居を命ぜられたのであった。

 やがて翌年(弘化二年〔1845年〕)二月、東湖は、小石川の江戸藩邸内から、小梅村の藩侯別墅へ移され、幽囚裡に呻吟する身となつた。小石川にゐた時は、先輩・知人などから贈物などがあり、酒などは始終、東湖のもとに絶えぬほどだった。その事は、東湖の『礫邸蟄居中貰物之覺』 (自弘化元年五月至同二年三月二日)に紀されてゐる。
 當時、東湖は、自分のことを固窮迁人と書いた。そして小梅へ移ってからは、さうした贈物を受ける事を固く禁ぜられた。以前にくらべると、待遇上、東湖に取って不便、窮屈さが加はったのである。

 

 けれども彼の意氣は、少しも衰へない。困難に逢ひ、窮苦に直面するにつけて、彼の 精神は益々冴えた。當時の生活は、彼の詩に現はれてゐるが、それには「門戸厳に鎖錀し、吏卒吾隣護る。縲絏に遭はずと雖も、奚ぞ獄中の人と異らん」といひ、「丹心猶ほ我に隨ふ、未だ必すしも苦辛を嘆かず、黄卷亦我に伴ふ、好し古賢と親まん」と吟じてゐる。この際の樂事は、一に読書に限られたのである。その次ぎは、祕密裡に手に入れた酒に醉って忘我の人となることだった。

 

(十) 東湖の著作生活と教育事業          
 かうした幽囚裡において、東湖が主力を注いたのは、著作である。平生、政務多忙のために、容易に執筆の暇がない。が、幽囚は多忙な東湖に時間を與へた。彼は、これを利用して、全く著述に沒頭した。かの有名な『和文天祥正気歌』も、天保十四年(1843年)幽囚中に初夏を迎へた折の詩篇だった。

 

 當時、東湖は陋屋に談居して、濕氣や汗や悪臭などに惱まされながらも、元氣一倍し「これを支那の文天祚が土窖に苦しめられたのにくらべると、何でもない、風も蚤も一向苦にはならん」と豪語した。また、その中には、「屈伸天地に附す、生死又何をか疑はん」といひ、「死しては忠義の鬼となり、極天皇基を護らん」と歌った。そこに東湖の強い正義感と尊皇精神とが現はれてゐる。

 

 窮すれば通じ、行き詰れは道が開ける。弘化三年(1846年)十二月に至り、幕命によって、はじめて東湖は許され、小普請組となつて、水戸に移される事になった。翌年(弘化四年) 正月、東湖は長い幽囚裡から出て、久振りに、水戸に歸り、ひたすら謹慎した。さうした生活の中にも、東湖は政治上の關係から、非常時に直面して、ぢっと閑日月を樂んでゐることを許されない。といふのは、東湖等に反對した保守派が東湖・•蓬軒府らの幽囚中に活隠して、頓に勢力を増し、東湖らの施設をも往々覆したからである。
 

 かうした形勢をちっと見てゐる東湖ではなかった。彼は同志の一人、原田兵助らを通じて、たびたび烈公と手紙を往復し、再び公が政治上に活動すべき時代が早く來るやう、ひたすら肝膽を碎いた。その時の心持は、彼が弘化四年(1847年)十二月に書いた『許々路迺阿登』にある。それには、烈公に対する希望を率直に述べ、政敵に乗ぜられぬやう用心すべきことをも進言した。

 

 その時分、東湖は暇を利用して、その代表著作の一つである『弘道館記述義』を書いた。水戸政教學の原理は、『弘道館記』にあるが、これが講説は『述義』にある。その文章、その表現、共に注々たるもので、一字一句に東湖の魂が籠ってゐる。彼の著作中、『常陸帶』「囘天詩史」『正氣歌』と共に、永遠に亙って輝く名言である。

 かくて、嘉永二年(1849年)になると、東湖は亡父の志を徭いで、私塾を開き、人材を養成することに努めた。門下からは、原伍軒(文政十二〔1829〕年~慶応ニ〔1866〕年)など當時の優れた人物を出すに至った。やがてこの年、東湖が始終氣にしてゐた烈公の謹慎もはじめて解かれ、舊よって、藩政に参與することを許された。

 そして東湖が謹慎を解かれたのも、同じ年で、 その時、彼は、四十四歲の働き盛りだった。

 

(十一) 外交國難の解決へ 
 今や東湖が政治家としての本領を発揮すべき光明時代が來た。また嘗て三年の幽囚裡に書いた諸著作は、羽なくして天下に飛び、諸藩の國土・志士の心を強く動かした。かうして東湖が新銳の意気を以て、花々しく、政治舞台に登場しようとするに當り、降って湧いたのは、多難な外交問題である。

 

 事永六年は、日本外交史上重要な時だった。

當時、アメリカの水師提督、ヘリイ(Matthew Galbraith Perry、11794~1858)が浦賀へ來て、はげしく日本の門戸を打叩き、頻りに開國を促した。

 この事は、幕府の鎖國主義と全く相容れないが、相當、アメリカの軍事上の實力を知り、またわが國防の極めて貧弱なのに気づいてゐた當局は、勇気もなく、自信もなく、首鼠両端の態度に出た。

 さうした因循姑息は、愛國の志士國土を憤激せしめた。また表面には現はれないが、議議論は、到るところに沸騰するといふ有様で、幕府當局もひどく困った。かうした窮地に立つに及んで、幕府は嘗て謀叛人視した烈公の出仕を促すに至った。

 烈公は起った。それにつれて東湖も亦嘉永六年七月、江戸に召し出されて、海岸防御係を命ぜられ、禄三百石を賜った。次いで安政元年には、御側用人兼務となり、役料百五十石の加増があった。それらの日、東湖が烈公の參謀長として主力を注いだのは外交問題の上にある。

 彼は、舉國一致の憊度を以て外國の侵略を防ぐべく、國民の決死的覚悟を必要とし、この建て前から、攘夷的主戦論を向唱した。それと併行して、第一に貧躬な國防を一日も早く充實せねばならぬことをも主張したのである。

 

 かうして烈公が、『海防愚存』を幕府に上って十條五事の建言をしたのもこに東湖の考へを徴しての上だったと考へられる。

 

 右の十條の中には、幕府が第一に和戰二つのうち、そのいづれを執るべきかを天下に示すべき必要ありとし、當然、攘夷上、主戰に出ねばならぬ旨を主張して、「夷賊打掃は 祖宗の遺制、打拂(主戦)に決すれば、土氣十倍し、軍備は命令一下のもとに整ふ」といふ事を述べた。蓋し當時の大名・武士の大半は軟例化し、土氣沈衰を免れないのを憂ひての建言である。

 

 が、いたづらに、強がるのではなく、烈公は、軍事上の近代化を熱心に說き、持に軍器•軍艦をすっかり洋式として、西洋に對抗せねばならぬ急務をも力說した。元來、烈公は一度、海外事情を調査するため、洋行しようと思ったこともある位で、頭からの排外主義者ではなく、形勢上、時宜に應じて、攘夷・主戰を髙調したのである。東湖も無論、同樣だた。が、幕府當局の中で、東湖らの眞意をよく理解したものが、いくらあったか、頗る覺束ない。  

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幕末の日本に旋風を巻き起こした水戸藩の尊王攘夷論

 


 


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