つくば市北条の城山(多気城跡)
城山(じょうやま) もとは多気山(たけやま)という。戦国時代に城が築かれて以来、城山とよばれる。現在は龍ヶ崎市正覚山正信寺の寺社林として管理されてい . . . 本文を読む
旗本と「年貢の納め時」 旗本とは、徳川家直臣のうち,御目見得以上,大名未満(一万石未満)の交代寄合,高家、知行所(領地)を持ち,ある程度の行政・司法権を有する者で、世間的には「殿様」と呼ばれた。 身分的には、旗本は500石以上は知行取で、500石未満の場合は4代家綱迄に知行取の場合以外は切米取だった。 知行取とは、百姓付の土地である地方を領地として与えられ、土地・百姓を直接支配してその年貢諸役 . . . 本文を読む
名君の誉れ高い水戸光圀 水戸藩の第2代藩主徳川光圀は、水戸黄門としても知られ名君の誉れが高い。 初代藩主徳川頼房の三男で、儒学を奨励し、彰考館を設けて大日本史を編纂し、水戸学の基礎をつくった藩主である。 藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地の探検などを行った。大日本史と呼ばれ . . . 本文を読む
権威を見せ付けて 役人の不正を糺さざるを得ない事情 「水戸黄門漫遊記」は、数ある時代物のうちでも、人気の衰えない話であるが、『漫遊記』自体は、それに喝采した近世後期の人びとの夢想である。 実在の水戸藩主である徳川光圀は、水戸藩初代藩主頼房の第3子で江戸時代初期の名君の典型とされた。光圀は国史編纂 (『大日本史』) のために史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、光 . . . 本文を読む
藤田小四郎の像(筑波山神社)筑波山挙兵 1864(元治元)年3月27日、藤田小四郎らは水戸町奉行田丸稲之衛門を総帥として筑波山に挙兵した。 陣容は、田丸を総帥に藤田小四郎が中軍将、斉藤左次衛門を輔翼、藤田小四郎、竹内百太郎、岩谷敬一郎(新治郡宍倉村)を総裁と称し、 天 . . . 本文を読む
「御三家」の威光と弊害〔御三家の威光を振り回す、特権意識〕 副将軍説がたとえ確かなものではなかったとしても、御三家としての権威は諸大名とは格段の違いがあり、水戸藩の武士や領民までも、他家に対して御三家の威光を振りまわす気風が強かった。 たとえば、御三家の通行のときは、先払いの者が、「シタニロ、シタニロ」(下に居ろ、下に居ろ)と制止声を掛け、往来の士民は道脇に土下座する習わしであった。 だか . . . 本文を読む
平沢官衙遺跡全景筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙」いまから1000年以上前、奈良・平安時代の常陸国筑波郡の役所跡である。1975(昭和50)年の調査で、重要な遺跡であることが判明した。1993,1944年度(平成5、6年度)には復元整備事業を計画し、本格的な発掘調査が行われた。 調査では、一般の遺跡では見られない大型の高床式倉庫と考えられる建物が数多く並び、それらを大きな溝が囲む . . . 本文を読む
筑波道から飯名神社方向及び筑波山を望む 古代の筑波開拓 縄文時代の頃、筑波山麓の南面に当るまで所太平洋の波が寄せていたという。 縄文・弥生時代から古墳時代と時代とともに筑波山南面山麓の開拓が行われたので、南面山麓が筑波の表玄関であった。 古代、筑波山への登山道は土浦方面から小田を通り平沢の郡家跡と推定されるので神郡、六所を経由して登る道と、北条から神郡を経由して臼井の飯名 . . . 本文を読む
武田耕雲斎等の墓(福井県敦賀郡松原村) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 水戸天狗党が討伐軍に降伏し処刑されるまでの経緯を島崎藤村「夜明け前」第一部第9章(三)から抜粋する。 「夜明け前」では状況の推移が時系列どおりになっていないが、記述されている順に抜粋した。〔取調べ〕 それを半蔵が言い出すと、の百姓の口からもれて来た。浪士ら最 . . . 本文を読む