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高須芳次郎著『水戸学精神』(十二) 晩年の東湖 (十三) 山内容堂と東湖 

2022-09-02 | 茨城県南 歴史と風俗

  高須芳次郎著『水戸學精神』     
   


 
第九 藤田東湖の思想と人物  


(十二) 晩年の東湖
  

 茲に一押話がある。當時、東湖は、烈公の命令次第で、アメリカ及びロシヤに使節として赴くかも知れないことになってゐた。この事は、『水戸藩史料」中に出てゐるが、時の閣老、阿部伊勢守正弘(文政二~政四)は、烈公と相談の上、オランダ人に託し、軍艦を西洋から購入するについて、監督派遣の必要を認めてゐた。烈公の考へでは、既に監督を派する位なら、一步進んでこれを使節とし、平生最も信任する東湖をして、その重任に當らせたいと思つたが、結局、實現さるるところまでゆかないで了った。これは、極秘密裡に議せられた事柄である。

 

 かく外交國難が未だ解決されないで、國内沸騰しつつあるとき、不幸にも、東湖は、安政二年の大地震に災されて震死した。それは東湖五十歲の時で、心ある人々は、深く東湖の不幸に同情し、哀惜してやまなかった。惟ふに晩年の東湖は、天下の東湖として或は北門經營について、水野越前守と再度相語り、或は地方の俊傑と政治上の意見を交換した。
 

 その中の主なる人々には、
幕府の有力者として、

 阿部正弘・岩瀬忠震(享保三~文久三)、川路聖謨等があり、
諸侯としては、
 薩州の島津齊彬(文化六~安政五)、越前の松平春獄(文政十ニ~明治二三)
 土佐の山内容堂(文政十~明治五)、宇和島の伊達宗城(文化十四~明治二五)等があり
國土としては、
 大西鄕を始め、佐久間象山(文化八~元治二)、橫井小楠、吉田東洋(文化十三~文久二)
 橋本左内(天保五~安政六)、安井息軒(寬政十一~明治九)、藤森弘庵(寛政十一~文久二)
 梁川星巖(寛政元~安政五)、林鶴梁(文化三~明治十一)、羽倉簡堂、
 肥前の秋吉神陽(文政五~文久二)、肥後の長岡監物(文化九~安政六)
 土浦の大久保要(寛政十~安政六)、土佐の小南五郎右衞門(文化九~明治十五)等があった。

 
 以て東湖が薩・土・肥諸藩に呼びかけて、いかに當時に重きを為したかが分る。
その他、長州の吉田松陰、久坂玄瑞(天保十~元治二)等は、いづれも東湖の崇拜者で、その感化を思想上に深く受けたのである。


 故に東湖がもっと長生したら、烈公の政治的行路は屈伸自在で、晩年の失意・不遇を嘆ぜずに濟んだであらう。當時、東湖は、吉田東洋らを通じて、土佐の山内容堂を動かし、また橋本左內に衷心を打開けて、越前の松平春嶽と政治的氣脈を通じ、更に烈公の背後にゐて、薩州の島津齊彬を水戸の身方たらしめた。
 豪快無比の名があった容堂が勤皇に努力するやうになったのも、一は東湖の力によるところが多いのみならず、薩長の勤皇運動も所詮、東湖の鼓吹によるところが少くない。木戸孝允(天保四~明治十)の如きも、やはり、東湖の著作にインスパイヤされた一人である。

 

 茲に東湖と橋本左内との關係について記述すべきことがある。左内は、越前藩主松平春獄の拔擢を得たが、それには、東湖の力が與ってゐた。東湖は、同藩の參政、鈴木主税(文化十一~安政三)心やすく交つてゐたが、ある日、鈴木が來訪したとき、「弊藩には人材がなくて困る」といった。その際、東湖は、「それは燈臺下暗しで、貴藩には、立派な人がゐる」と吿げたので、主税は「誰だらう」と問ふと、「橋本左内である。あれは、もっと重用されるがよい」と答へた。鈴木主稅は、それを聞いてひどく喜び、歸藩すると、早速、春獄に進言した。その結果、左内は御書院番に任用されたのである。左内の出世は、全く茲にもとづくといってよい。

 

 東湖は、左内の先輩として、左内に崇拜され、左内は、東湖を「有志中の魁傑」と呼んだ。東湖が大震のため死んだとき、丁度、左内は江戸にゐたが、その奇禍を聞くと飛ぶやうにして、水戸藩邸に駆け付け、遺骸の前に泣いたと傳へられる。それによって見ても、東湖の死は、左内にとって少からぬ打撃で、最大の指導者を失ったといふ感じが、何よりも左内を悲しましめたと推想させれる。
    


(十三) 山内容堂と東湖
  

 東湖と諸名士との交遊關係を書けば、中々典味深いことが多い。殊に山内容堂との最初の會見などは、頗る振ってゐる。劈頭、「弊藩は幕府の親藩でどうもならぬが、閣下は一つ、幕府に對して、謀叛されては如何でござる」と云って、先づ容堂の荒膽をひしいだ如をは、東湖でなくては、打てぬ芝居である。天下の大名を悉く眼中におかなかった容堂も、車湖だけは、心から傑物として重んじた。その容堂のベンネエムも、實は東湖の注意によって、用ふるに至ったのである。

 さうした逸話挿話は多い。が、ペエジの關係上、他は一切、省略して、唯最後に一言したいのは、あれだけ、天下に盛名を馳せた東湖も、物質上、極めた淡泊清廉で、一生、清貧に安んじたことである。彼は、酒好きだったが、いつも豆腐を肴に一酌するといふ風で、佳肴美味を必ずしも求めなかった。 

 その晩年における酒代は、主として彼の潤筆料(東湖は書をよくし珍重された)によって支辨されたが、時に財政上に行き詰って、酒が飲めぬと云ったやうな場合さへあった。事實、彼の勢力を以てすれば、物質の上に窮することなく、貧乏しなくともすんだのであるが、東湖は、さうした點に無關心で、貧に處して晏如としてゐた。彼の淡々たる生活は、今日の政治家が最も學ぶべき一つであると思ふ。

 要するに、東湖は、日本精神を基本として、政治・經濟・敎育・宗敎・文學など、各方面に互って、改革を斷行した人だった。彼が、かく鮮やかに手腕・識見を發揮し得たのは、烈公の引立てと幽谷の家訓によるが、一つは、彼の器量拔群で、人格卓越した爲めである。  


 今、その主要著作を掲げると左の如くである。
〇弘道館記述義(二卷) 〇常陸帶(二卷)    〇囘天詩史(二卷) 〇東湖遺稿(六卷)   
〇東湖詩文拾遺(一卷) 〇許々路迺阿登(一卷) 〇東湖歌話(一卷) 〇丁酉日録(2卷)
〇浪華騒擾記事(一卷) 〇囘天必力(一卷)   〇東湖封事(四卷) 〇東湖随筆(一卷) 
〇壬辰封事(一卷)   〇上下萬有の議(一卷) 〇土着の議(一卷) 〇見聞偶筆(一卷)


 その他、水戸市敎育會編「東湖書翰集』一卷があり、尚ほ近世史談に關する未定稿があり、日記•手紙の類ひが可なり多くある。

それらは、菊池謙次郎氏の『東湖全集』に收められてをらぬ部分である。東湖の手紙で、その母堂・夫人・姉妹等に與へたものの中には、興味深いものが少くない。そこに溢るるばかりの美しい情味が出てゐる。それらは、『維新史料』の中に日記と共に收められてゐる。
  

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