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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

水戸天狗党の筑波山挙兵と挫折  

2023-09-10 | 茨城県南 歴史と風俗

  名山として知られる筑波山 
        挙兵を印象づける上では格好の山、守るのは難しい 


筑波山挙兵に至った背景
 

 徳川斉昭の死後、水戸藩では尊援改革派は 攘夷の即時決行を求める激派と慎重論をとる鎮派とに分裂した。激派は玉造の郷校などにより、領内の豪農等を組織した。
 とくに万延元年(1860)8月、長州藩と水戸溶の有志が結んだ成破の盟約がしだいに広まると、激派はこれを藩是と考えて、文久元年(1861年)東禅寺 英国公使館襲撃事件や翌文久二年老中安藤信正襲撃事件(坂下門外の変)を起こした。

 一方こうした援夷の要求におされて、幕府は朝廷に撰夷の決行日を約束するまで、追いつめられた。しかし孝明天皇が親幕的で朝廷の秩序をみだす援夷派の公家をきらっていたことや、薩摩藩などが朝廷と幕府の融和をはかる公武合体を唱えていたことから、文久3年8月18日攘夷決行を直前にしてクーデターを起こし、長州藩と攘夷派の公家を追って朝廷を掌握した。

 尊王攘夷の挙兵を計画していた浪士は、大和天誅組・但馬生野の変などを起こしたが、いずれも幕府に鎮圧され、彼等の勢力はこれを境に衰えていった。
 こうした中で、関東でも幕府は尊王攘夷派の取締りを本格化した。この頃、下総・常陸の農村では水戸滞激派や、これを称するものが豪農商に献金を強要し、民衆からの反発が強くなった。そこで水戸藩では鎮派までが加わって、郷校により活動する激派を抑え込もうとした。 

筑波山挙兵  
 このため水戸藩激派を中心とする尊王援夷派はしだいに追いつめられ、筑波山に挙兵して活動の転機を見いだそうとした。
元治元年(1864年)3月27日、筑波山に挙兵した天狗党は、水戸藩町奉行田丸稲之衛門を総帥とし、徳川斉昭の遺志をついで攘夷の先鋒となることを宜言して、周囲に呼びかけた。

 筑波挙兵は藤田東湖の子小四郎の唱えたもので、8月18日のクーデターで朝廷を追われた長州藩が資金1000両を提供したといわれる。
        藤田小四郎の像(筑波山神社)
   

ニセ天狗の跋扈 

 筑波地方には、この前年文久3年(1863年)11月ころより、水戸浪士やこれを称するものが入り込み、豪農に金品の差しだしを強要したり、乱暴を働くようになっていた。

 例えば、11月29日には泉村の名主宅へ水戸浪人の小林幸八・五島秀吾というものが現れ、前年同村で召し捕った柴田一之助はまことの同士で、かれの死を弔うため名主に天詠を加えると脅し、金10両を提供させる事件が起きている。

 12月には、早川森六郎・悪津小太郎・干草太郎・原七郎太郎などが筑波町一丁目の稲葉屋に泊まり、「水戸新帳(徴)組」と称して活動し、翌正月になって召し捕らえられた。

 幕府は文久3年(1863年)には、水戸浪人や新徴組と称して常陸・下総の農村を横行するものを厳しく取り締まることを命じていたが、彼らもその一部である。
 元治元年正月になると森六というものが谷田部で逮捕され、筑波の若松屋へ泊められたが、これは「にせ天狗」であった。

 さらに同月、幕府よりの高札を浪人小野三左衛門・塙平助が足下にかけ割ってしまうという乱暴を働いた。このため筑波では寺社 奉行に報告するとともに、江戸小石川の水戸藩邸に申し入れ、水戸藩領小川村の郷校勇士館より人数を派遺してもらうことにした。

 文久三年より鎮派の水戸藩家老武田耕雲斉は、関東鎮撫を命じられ、激派やにせ浪士の取締りにあたっていたので、筑波ではこれを期待したのであろう。
 
 勇士館では、筑波の御寺へ小川館出張所と表札を出し、5~10人が交代で詰めたが、これは正月29日のことで勇士は宝撞院を本拠とし、これ 筑波館と称したという。

 小川館は、茨城郡小川村に文化元年(1804)に設けられた水戸藩では最も古い郷校で、正式には稽医館といって、医学の講義・普及を目的とした。幕末には、激派の重要拠点となっていたが、筑波挙兵は藤田小四郎と同校の中心者竹内百太郎、潮来郷校の岩谷敬一郎とが協議して計画されたといわれている。

 筑波山は名山として知られ、挙兵を各地に印象づけるためには、格好の場所である上、事前に出張所を置くことができたので、藤田たちには筑波の人々の思惑とは異なって、いっそう計画は容易に進むと考えられたのであろう。

 こうして元治元年3月27日、田丸稲之衛門を大将とする60名余の集団が筑波山へ登り、町役所を木陣として周囲に呼びかけると、各地から尊王攘夷派の浪士が駆けつけ、数日で150名ほどにのぼった。 
  
   

金策、実態は脅迫で金品の強奪  
 挙兵した筑波勢は、数日の間各地で軍資金を「金策」し、その額2000両に及んだといわれる。
挙兵の少し前の3月15日、横浜と糸綿商いを行い大きな利益をえていた新治郡片野村の豪農伝七が、天誅を加えられて殺害された事件もあり、筑波山周辺の豪農のなかには、あわてて献金に応じるものもいた。

 しかし筑波山は、地形上は比較的登山の容易な山で防御が難しい面もあったので、藤田らはつぎの目標として、日光山を選び参詣の後、攘夷を決行するとして出発することにした。

 日光山は徳川家康の廟所があり、地形も唆険であったので、立てこもるには格好の地であった。そこでここに参詣すると称して、その占拠を目指したのである。このため彼らは、挙兵から数日した4月3日、ひとまず筑波山を立って、日光に向かうこととなった。

 出発にあたっては、田丸稲之衛門を総帥にし、藤田小四郎と竹内百太郎・岩谷敬一郎が総裁となり、天勇・地勇・竜勇・虎勇・中軍・補翼・遊軍などの隊列を整え、それぞれ隊長を任命した。

 その人数は130名ほどで、槍や鉄砲を装備し、筑波山より徴発した葵の紋入りの幕などをもっていた。また徳川斉昭の木像をつくり、これを奥にのせて「従二位贈大納言源烈公神輿」(烈公は徳川斉昭諡の号)と書き、白衣を着用したものにかつがせ、威儀をただして出発した。
  

天狗党の日光参詣と筑波帰還 
 
 4月3日に出発した筑波勢は、真壁那小栗村・下野国石橋宿と泊まり、4月5日には宇都 宮に入った。ここで宇都宮藩に挙兵の主旨を説明し協力を求め が、賛同をえられず、藩の重臣で尊攘運動に理解があった県勇記より軍用金1000両と旦光社参の保証をえて、4月7日日光に向かった。

 日光ではすでに前年文久3年(1863)9月字都宮藩浪人大河滝右衛門・会津藩浪入高橋晴次ら5名が、参詣と称して宿所に密かに武器をもちこんでいることが、発覚しており、宇都宮藩や館林藩が警備を固めていた。

 また筑波勢の接近がつたわると、日光奉行所ではかねて準備していた農兵800名を召集して、大砲などを備えて、厳重に警備した。このため筑波勢は日光に入ることはできず、結局、県勇記の仲介で、代表者のみが警護のなかを参詣するにとどまった。
 
 筑波勢は、4月11日まで日光に滞在したが、この間、緊急の警護を命じられた足利藩士100余名・太田原藩士100余名・鳥山藩士150余名などが駆けつけたので、日光をあきらめ大平山(現栃木市)に立てこもって周囲に呼捌け、軍資金の調達を行った。


 大平山で筑波勢の田丸は 岡山藩主池田茂政に働きかけて、朝廷より攘夷の勅書を受けようとした。しかしこれも成功せず、5月晦日大平山を離れて再び筑波へ帰ることになった。

 筑波に帰るにあたっては、岩谷敬一郎ら120余名を別動隊とし、壬生・結城藩に挙兵の主旨をといて協力をもとめようとしたが、両藩はこれを相手にせず、瞥備を厳重に固めたので成果はなかった。

    田中愿蔵隊が屯したつくば市神郡の普門寺 
   寺の人が、田中隊は下妻の方に出撃していたようだと言っていた。
  

 またこの頃積極的に金策にあたっていた田中愿蔵に率いられた一隊は上野国桐生にまで出向いて、軍資金を集め、帰りに足利藩領であった栃木町(現栃木県栃木市)に武器や軍資金を要求し、断わられると各所に放火し、町を焼いた。
 田中愿蔵隊の強引な金策は筑波勢の評判を決定的に落とし、筑波勢に大きな打撃をあたえることになった。
    
 
  

 こうして各地で、活動しながらもさしたる成果もないまま筑波勢は、6月2日再び筑波山へ帰還した。

 名主義一郎と島吉は筑波勢に呼ばれて、周辺村より武器・人足の徴発の手配を命じられるとともに、土浦藩や関東取締り出役に筑波勢の動静を報告している。 
 筑波に結集した人数を数えると、670~80名ほどとなっている。このほか各地から別動隊が帰山し、その勢力は1000名ほどとなったといわれる。

 彼等は筑波町の出口を長さ二間程の杭木を打って固め、沼田村明蔵院には須藤敬之進・字都宮左衛門の天勇隊が大筒を道路に向かって配置して警備した。

 また郷国小径には、竹槍塁で結び浪人の出入は印鑑がなくてはできないようにした。
さらに西では、高祖道村で小貝川を固め、南は筑波山の麓の臼井村に土手を升形に築き、大堀を掘り黒門を構えて警備し、その先の神郡村普門寺に警護の兵をいれた。
 東では、十三塚峠に仮小屋を築き、小幡村宝薗寺に拠点をおき、北は筑波山の頂上の五軒茶屋を見張り所として、備えを固めた。

 また土浦藩領の北条町にも進出しようとして、宿所の提供を申し入れたが断わられた。土浦藩では、6月9日に200名を小田村に派遺し、筑波勢に申し入れれて、同領内に入り込まないことを約束させたが、あまり守られなかった。 
 土浦藩や笠間藩は常陸では水戸藩に次ぐ有力藩で、筑波勢もこれを刺激することは得策でないと判断し、同領内での 活動はある程度はひかえている。

 しかし筑波勢中枢の判断とは別に、普門寺に滞在した田中懸蔵隊は6月21日土浦の城外の真鍋宿を襲い、宿を焼き金品を略奪した。またこれに呼応して、筑波勢の一部も北条を警備していた土浦藩兵を攻撃したが、いずれも目的を達することができなかった。

洞下・下妻の戦いと天狗党の崩壊  
 一方一歩筑波勢の動きに、幕府でも6月14日ようやく討伐の方針が決定し、近隣諸藩に動員を命じ、目付小出順之助のひきいる歩・騎・砲の洋式3兵3000名が派遺された。
 また水戸藩では、この間、門閥派の市川三左衛門が弘道館の文武諸生を組織し、鎮派を追って政権をにぎり、幕府兵700名の部隊をひきいて筑波勢鎮圧に向かうこととなった。鎮圧部隊は日光街道の小山宿より結城・幕兵とともに下館を通り、下妻に結集した。

 これに対し筑波勢は藤田小四郎・飯田軍蔵ら150名が7月6日に洞下宿に進出し、鎮圧軍を迎え撃とうとした。
両軍は7月7日、高道祖原で衝突したが、装備と兵力に優る鎮圧軍のため筑波勢は緒戦では敗退し、ひとまず筑波山へ引き上げた。

 しかし翌日、筑波勢は真壁郡木戸村(現関城町)の出身で地理に詳しい飯田軍蔵らの提案 で下妻の鎮圧軍へ夜襲をかけることにした。鎮圧軍は緒戦の勝利を利用し、一気に筑波山へ押し寄せて、勝敗を決するような戦意はなく、本営で 勝利の祝宴を開いて時を過ごしていた。
 筑波勢が引き上げた高祖道・洞下村方面にも、とくに警備の兵を配置することもなかったため、夜襲に出てきた筑波勢は難なく小貝川を渡り、7月9日幕府軍の本営だった下妻の多宝院を急襲することができた。

 不意をつかれた幕府軍は大混乱に陥り、かろうじて下妻を脱出し、高崎藩など諸藩兵も下妻を追われた。このため下妻藩も陣屋を焼いて、退却せざるをえず、下妻・下館方面の鎮圧軍は総崩れとなった。筑波勢の威勢は大いにあがり、勝利を聞いて合流してきた尊援派の浪士は400名にのぼったという。

 しかし筑波勢の優位もここまでであった。もともと筑波勢は自力で幕府に立ち向い、周囲の情勢を変えていくだけの力をもってはいなかった。尊撲派の浪士の蜂起だけでは、攘夷の実行だけでも容易でないことは、各地の蜂起の失敗が証明していた。

 筑波勢も大平山にーカ月以上も滞在しながら、初期の目的を達成できなかったばかりか、献金の強要などで孤立を深めるばかりであったのである。
このため筑波山へもどってきた頃から、筑波勢は山へ立てこもる以外に、つぎの行動の展望を見つけることができなくなっていた。

 こうしたなかで下妻を引き上げた市川三左衛門らの諸生派が、7月23日に水戸城に入り、残った激派やその家族の弾圧に乗り出すと、筑波勢のなかには水戸にもどりこれと戦おうという声が生じた。このため水戸藩以外からの参加者は、筑波勢を離れるものが多く出たが、藩士を中心とする主流は7月24日、水戸に向かって筑波山を下りていった。 

   

 これにともない、他の尊援派の浪士もつぎつぎと筑波山を下り、8月14日西岡邦之助ら40名が、幕府軍の接近を知り、筑波を去ったのを最後に、筑波山での屯集は終わった。

 水戸に向かった筑波勢は、城下で諸生派と戦いを 繰り広げたが、諸生派の守りは固く、水戸城に入ることはできなかった。
 これに対し江戸では藩主徳川慶篤が、藩内訌訂争をしずめるために、宍戸藩主松平頼徳に鎮派の榊原新左衛門以下700名をつけて派遺することにした。こ
 の隊に途中より、武田耕雲斉など鎮派でも激派に同情的なものなどが加わり、水戸に向かった。これを大発勢と称したが、彼らは8月10日諸生派の占領する水戸に着き入城を求めるが、断わられて那珂湊に拠って諸生派と闘うことになった。これに小川に拠点を設けていた激派が合流し、以後那珂湊と水戸の間で、激しい攻防戦が開始されることになった。

 一方下妻の戦いに破れた幕府は、若年寄田沼意尊を常野追討軍総括に任命し、第二次討伐軍を派遺した。これには神郡村を中心に5000石を領していた井上正常も小姓組頭として参加している。

 幕府の追討軍 は7月25日に江戸を立ち、古河・下館・笠聞を通って水戸に入り、諸生派の援軍要請をうけて、9月1日より那珂湊を包囲攻撃した。攻撃は、大発勢・筑波勢の抵抗で難航したが、結局、幕府軍との戦闘を望まなかった大発勢の主力が降伏したことで、10月23日那珂湊は陥落した。

武田耕雲斉や筑波勢、
 一橋慶喜に尊王攘夷の真情を訴えるため西上
   
 降伏に反対した武田耕雲斉や筑波勢1000名余は、那珂湊を脱出し、久慈郡大子村で陣容を整え、京都にのぼって徳川斉昭の子で、一橋家に養子に入り、当時禁裏守衛総督を勤めていた一橋慶喜に尊王攘夷の真情を訴えることとした。
       
 10月23日日、800名余りとなった同勢は総大将に武田耕雲斉をいただき、隊を再編成して西上の途についた。諸生派の弾圧で、その家族もくわわり、西上は困難を極めたが、途中の諸藩が必死の勢いで西上しようとする同勢と正面から闘って打撃を被ることを恐れて、通過を黙認したり、討伐に積極的でなかったことから、ともかく美濃にはいることができた。

 しかし彼等が期待していた一橋慶喜は、朝廷より同勢討伐の許可をとり大津に出陣するありさまで、京都方面の瞥備は厳重を極めた。そこでいったん越前に入り、そここから琵琶湖の西岸を通って入京しようと、越前に向かったが、折りからの雪と寒さのためついに力つき、12月20日討伐軍に降伏した。

 幕府では降伏者823名中武田耕雲斉・田丸稲之衛門・藤田小四郎以下352名を斬首とする厳しい処分を行った。さきに那珂湊で投降した大発勢にも切腹以下の処分が行われており、こ れにより水戸藩尊王攘夷派は壊滅した。
 このため同藩はいちはやく幕末動乱に乗り出しながら、明治維新において、ついに重要な役割を果たすことなく終わってしまうこととなった。

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