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高須芳次郎著『水戸學精神』 第九 藤田東湖の思想と人物 (一)東湖の修養時代 ~ (四) 烈公の左右に侍して政治上に貢献 (五) 烈公を輔けて法政改革

2022-08-31 | 茨城県南 歴史と風俗

   高須芳次郎著『水戸學精神』



第九 藤田東湖の思想と人物

(一)東湖の修養時代   
 水戸の人物中、ひろく、海の內外に知られてゐるのは、藤田東湖である。彼は、幽谷の次男で、水戸上町梅巷(梅香)に生れた。諱は彪、字は斌郷、幼名を武次郎といひ、後、虎之助と改めた。

 

 彼は、父幽谷の英資を享け、且つその薫育のもとに成長したから、夙に飛躍を総すべ き素質を持ってゐた。東湖がはじめて學問を修めたのは六歲の時で、「孝經」の句讀を堀川潜藏に授けられた。それから、八九歳の時分、父幽谷が晚酌に醉ひ、陶然となって、文天祥の『正気歌』を夜ごとに朗吟するのを聞いて、不知不識、深い感化を受けたのである。
 やがて十四歳になると、友人を豊田天功(文化二〔1805〕年~元治元〔1864〕年)と共に、江戶に遊學し、箱田鵬齋(寶暦二〔1752〕年~文政九〔1826〕年)、太田錦城等について文學を修め、また岡田十松の門に入つて、擊劍を習った。そして、數十日を江戸に送った後、水戶に歸り、父のもとで文武を励んだのである。爾來、十九歳に至るまで、父の指導によって、天性の美質を十分に琢磨した。

 

 當時、西カ東漸の勢は、漸く烈しさを加へ、文化五年(1808年)イギリスの船が浦賀に來たといふのを東湖等も知った。ところが、同七年(東湖十九歳)イギリスの商船が常陸の北岸、大津の湊に入り、一隊のものが小船に乗って上陸したのである。村人は、すぐ彼等を引捕へたが、爾來、イギリスの船は帆をあげて度々、海岸に近づき、時々、大砲を放って、海邊の漁民を驚かした。以上の事は、幽谷の傳記中に述べて置いたが、さういふ外人の態度は、東湖の愛國心を強く刺戦したにちがひなかった。彼は、外交國難排除の必要を沁々感じたのである。

 

 やがて文政八年、束湖が二十歲になったとき、再び江戶に遊學し、岡田十松の撃劍館に通ひ、更に翌年三たび江戸に出て、伊能一雲齋について,寶藏院流の槍法を學んだ。 當時、幽谷も藩用で江戶に出てゐたので、折を見て、親しく東湖の発奮を促したことは、既茨述した通りである。

 

 それから間もなく、幽谷は病床に臥し、危篤の報が東湖のもとへ來た。當時、彼は、撃剣道にゐて、ひたすら武道の鍛錬にいそしんで時の經つのを忘れた位だったが、「父危篤」の急報に接すると、日夜、道を急いで水戸に歸った。が、もう幽谷は最後の呼吸を引取ったので、これと言葉を交はすことが出來ない。孝子東湖の悲しみは非常に深かった。それは文政九(1826)年十ニ月のことである。


(二) 幽谷没後の東湖
  東湖は、今となって、幽谷の訓言を思ひ出した。父が懇切に東湖の修養について注意した言葉が、もう遺言となったのである。平生心をつくして自分を指導してくれた父を、もう再び見ることが出來ぬ。かう思ふと、東満は胸が一杯になった。當時のことは、彼の日記に書かれてゐるが、父歿した翌文政十年(1827年)の正月元日が、東湖に取つて、極めて淋しいものであったことを記し、「豈圖らんや、不幸、大難艱に遭はんとは。牀蓐の間に酒餅を薦めんと欲すと雖も、復た得べからざる也。嗚呼哀しい哉。因て凄然自ら禁ずること能はす。歔欷流涕良久うす」と云つてゐる。

 

 その後の日記を見ると、毎日、亡父の夢を見たことを記し、一月十九日のところには、「三たび先考を夢む」と書いた。いかに彼が亡父を哀慕したかが、さうした記事の上に流露してゐる。かうして東湖は、爾後、三年の心喪を守った。 やがて東湖は、父の跡を継ぎ、文政十年(1827年)二百石の俸祿を賜って、進物番に任用され、史館編修を兼ねた。それは、彼の二十二歲の時である、その頃から、東湖の偉器は、自然、人の知るところとなったが、一方、有名な幽谷の子としても重きを爲すといふ風であった。

 

 當時(文政十二〔1828〕年五月)の日記によると、水戶方面の海岸が、外國船の來るため、物騷で、ともすると、東湖の神經を、強く刺戟したのである。東湖は、「時勢嘆ずべし」と云ってゐるが、この短い文句のあひだに無限の感慨が溢れて、東湖の切歯した姿が浮んでくる。


 この年、東湖は、二十四後で、彰考館總裁代役となった。それは、父が久しくこの職にゐた爲めと思はれるが、一つは、東湖の人物・文章・才學が抜詳だったからであらう。當時、館中には、東湖の先輩もをり、老儒もゐたので、東湖は、その信ずるところに従って、積弊を一掃することのむづかしい事情を知った。それ故、彼は早く辞意を抱き、その胸中を先輩、青山拙齋(安永五〔1776〕年~天保十四〔1843〕年)に告げたのである。

 

 同年七月四日の日記を見ると、簡単にその旨を書いてあるが、東湖の改革箇條は、凡そ五つあった。 
それは
 (第一)心術正しくないものは館職にをらしめてはならぬこと。
 (第二)正しい人物及び實學は捨ててならぬこと。
 (第三)東湖が館職を攝するのは、不適任であるから辞職したきこと。
 (第四)史學の進行については、餘り烈しく督促してはいけないこと。
 (第五)『大日本史』の文章上、虚文•虚辭を用ひぬやうにしたことなどである。

 

 その眞意は、結局、『大日本史』を立派なものとして、義公の遺意を顕彰しようといふ上にあった。そして東湖は當時、素行の飾らない川口禄野が江戸史館總裁の地位にゐるのに慊らす弾劾したのも、私情から出たのではなく、右の如き趣旨による。


(三) 郡奉行とし<の東湖  
 かうして東湖が水戸史館總裁の地位を辭さうとしてやまなかった折柄、水戶に動搖が起った。それは藩主哀公(齊修)が大病に罹り、而もその後繼者が定らないで、藩內の人心が不安に陷った事だ。

 元來、哀公は文事の嗜みが深く、聴明の人だったが、多病のため、一度も國に就いたことがない。藩政一切を家老赤林八郞右衞門に委ね、その為すまゝに放任して置いた。そのため、藩政は行き詰り、士民の窮乏、次第に加はったのである。かかる際、藩主の大患と共に、繼嗣が定まらぬ事は、一藩の運命を危機に導くものとして憂慮の情を深めた。
 
 當時、心あるものは、いづれも、哀公の異母弟敬三郎君(後に烈公)に望を囑したので、東湖も率先、同志と共に、その擁立運動に努力し、決死の覺悟で江戸に赴いた。その消息は「囘天詩史」に詳しく傳へられてゐる。

 かうして東湖の熱誠が、天に通じたか、その年(文政十二年〔1829年〕)十月、敬三郎君が、哀公の薨後、藩主となることが定まるや、東湖等は、ほっと心を安んじた。
 さて烈公の時代になって、新しい氣運が動くと、東湖は天保元年、郡奉行に任用せられ、最初、八田部を、後、太田部を治めた。

 八田部は、水戸の北方六里ばかりのところにあって、土地瘠せ、住民も貧しいところだった。當時二十五歳だった東湖は、那宰として八田村にをり、毎日、役所へ出て老吏たちと民政上のことを講究し、在來の制度でよいものは、變更しなかったのである。

 その年(天保元年〔1830年〕)冬、東湖は、君命に接したので、江戶の藩邸に赴き、彼が平生、信ずるところの治民策を進言し、文武二方面をいかに發達せしむべきかといふことを述べた。烈公は、深く東湖の忠誠才能に望を嘱し、親筆を賜うて彼を愛重するの意を示した。
 

 その後、天保二年(1831年)正月、藩内の七郡を合して、四郡としたとき、東湖は太田部の奉行となった。この地方は、土地肥えて、民の生活も割合に豊かだった。この郡奉行時代に、東湖は、他郡の奉行と德政について相談し、ほぼ在來の行き方を守った。が、東湖は、素より無為を好まぬので、貧農救済に力を入れ、常平倉を太田•部垂•大子の三節所に設けようと考へた。
 
 蓋しそれによって、米価の急落や暴騰を防ぎ、姦商をして私利を貪らしめず、一般の生活を安定させようと考へたのである。そして彼の在任中、太田・部垂の方面には、その希望を實現したが、大子にまで及ぼすことが出來なかった。


 そのころ、東湖は、時々、部内を巡視して民情を知ることにつとめたが、在來の奉行のやうに、贅澤はしなかった。巡視中、彼は好きな酒を謹み、粗食に甘んじて、農民同様の生活をした。そして彼は、人々に厄介をかけぬやうに注意したのである。唯彼の樂しむところは、山水の勝景に對して、詩作することだった。

 惟ふに、郡奉行としての柬湖は、その大きい抱負と旺んな意気のもとに、郡政を一新したいと考へたが、その周圍には、とかく旧例を喜ぶものが多く、何事も自由にはならぬので、東湖は、たびたび烈公に書を上って、小人を斥け、君子を重用し、政治上、正しい道が行はれるやう、頻りに策を献じたけれども、途中に遮るものがあって、目的を達し得ない。依て天保三年(1832年)二月、辞職を申し出たが、これ又許されない。

 東湖は、不平に堪へず、僅かに酒を飲んで、煩悶を抑へてゐた。そして天保三年(1833年)四月、 不公に封事(壬辰封事)を上つて、政治上の改革斷行を勤めた。この封事が烈公の心を動かしたと見え、やがて五月下句、郡奉行から、江戶通事の職に轉ずることを命ぜられた。そして七月、東湖は、江戸の官舎に入ったのである。


(四) 烈公の左右に侍して政治上に貢献  
 そのころ、東湖は、烈公の命によつて、「神書明訓管窺」などを編述した。それから天保四年、烈公が藩校、弘道館を創設するに當り、東湖は、そのためにいろいろ力を盡した。當時、東湖は書を烈公に上って、その所信を披瀝し、「尊慮の神儒一致の學校御建立に相成り和學の漢學のと申すこと無之、唯學問と唱へ候なる風俗に相成り」といひ、神國日本の皇道を本として、儒教の理輪で、これを補ふ方針を最も正しいとした。


 また東湖は、烈公が北門の経営について根本策を建てようとしたとき、極力、これに同意し、天保五年(1834年)九月、時の閣老、大久保加賀守に一書を呈するに臨み、數回に亙って、烈公と協議した。その植民策は、烈公の意見を本として、東湖が訂正•執筆したのであるが、可なり進んだ考へを述べてゐる。

  

 東湖は、北海道方面を開拓するについて、多くの人手を要するので、同地に大規模の酒楼・遊里・劇場などを造るべきことを勧め、育兒館を設けて、兩親の手に養はれない不幸の子女を一切收容し、また内地の男子とアイヌ婦人とを結婚せしめる必要などを說いた。

 

 こんな風に、東湖は、烈公の北門經營を支持し、その實現を切に希望したが、幕府當局の無理解なため、實現を見るに及ばなかった。

 その後、天保六年(1835年)、東湖は通事から転じて解用調役となった。これは、奥右筆頭取の上にあって、その事務を監督する職で、東湖にふさはしい役柄だった。從って、東湖は以前にくらべて、一層特その志を伸べることが出來る境遇に置かれたのである。

 たまたま天保七(1836)年、八(1837)年に亙って起った大飢復は、全國に及んたが、中にも、關東堆方は殊にひどかった。その際、東湖は、烈公を補佐して、藩内の士民救済に最も力を入れたので、一人の餓死者をも出さ中に済んだのである。が、それから來た財政上の打撃は可なりに大きく、水戸では、斷然、士大夫の俸禄を半減した。

 

 これに対して、藩内の保守派は、烈公の處置を非とし、反抗的な熊度を執った。それで天保十年(1839年)、江戸にゐた烈公が、藩情視察のために、歸國しようとすると、それを拒むといふうだったから、烈公は怒った。その結果,保守派を斥けて、東湖らの進步派を重用するに至ったのである。

 

(五) 烈公を輔けて法政改革  
  かくして天保十一年(1840年)、東湖は進步派の幹部として、側用人の地位に進み、續いて彼の同志、戸田蓬軒(文化元〔1805〕年~安政二〔1855〕年)は家老に、武田耕雲齋(亨和三〔1803〕年~慶応元〔1865〕年)は若年寄 となった。當時、東湖は、三十五歳で、元氣正に旺んであったから、魚が水を得たやうに、澄剌たる手範を揮ふことが出來る端緒を得た。

 

 惟ふに、烈公は、早くから藩政改革を企圖したが、種々の事情で、文政十二年の襲封當時から天保十一年(1840年)の春になる迄、在國したのは僅か一年(天保四年〔1833年〕三月~同五年四月)にすぎない。從って烈公の志すところを實現するだけの時日に乏しく、不本意ながら、その儘に打過ぎた。勿論その間も文書によって江水期の連絡を取り、種々計画したが、双方の事情・意志の疏通せぬため、失敗に終ったのである。

 それ故、烈公は斷然、帰國して、親しく、改革の衝に當らねばならぬことを痛感し、天保十一年(12840年)正月十三日、江戸を出發し、十六日、水戸に入った。

 

 東湖は、烈公に隨從して帰藩するに當り、将軍家慶及びその世子に謁するの栄を得た。    
 そして帰藩後の東湖は、烈公の藩政改革を翼賛して、日夜、寸分の暇さへないほどだった。蓋し烈公の改革は、姑息を許さず、因襲に囚はれず、思ひ切って、各方面の積弊を根こそぎ排し去らんとしたのである。

 その奢侈を禁じ、浪費と制するについては、寧ろ苛細に互ることを辞さない方針を執った。かの水野越前守の天保改革は、烈公の爲したところに學んで、そこから有力な暗示を得たといはれる程だから、いかに烈公が急進的であったかが分る。それは、全く疾風迅雷にひとしいところがあって、世間の耳目を聳動した。

 

 勿論、烈公は奢侈を排し、惰弱を斥けるために、旧弊破壊のみに熱中したのではなく、一方においては、新しく、意義ある建設をした。それには、東湖が事毎に参與したのである。そこで烈公は、平生の抱負・理想に基づいて、教育に、國防に、農政一新に頗る力を盡した。

 その具體化が藩校弘道館の創立となり、軍事上に洋式を採り入れることともなり、社會政策の活用ともなった。それから宗教界の肅正、神道の興隆といふことについても、少からぬ力を人れたのである。

 
    


(六) 非常時の思想困難と弘道館創設   

  烈公が、弘道館を設立するに當つては、主として、東湖の意見を用ひた點が多かった。 館内に孔子と共に、建御雷神を祀るに至ったのも、東湖の進言による、またその學部の 分け方なども、東湖の創息にもとづいてゐる。

 それに有名な『弘道館記jは、東湖が烈公の命を奉じて、不朽の一大文章を書くつもりで、少からぬ努力を拂った。
 彼が會澤正志齋に與へた手紙には、「神州の一大文字にも 相成るべき儀、心體に任せず。慙愧此の上なく奉存候」と云ってゐるが、それは『弘道館記』起艸の意氣込を告げたのである。

 

 そして彼は、平生の抱負を正志斎に打開け、「東藩學術の眼目に仕り、推して天下に及び、神州左衽の憂これなきやう仕り度、日夜の志願に御座候」と述べてゐるのにもよると、日本の精神文化を創建して、思想上、日本獨自の面目を發挿し、海外文化を批判して、その是なるものを用ひ、非なるものを斥けようとした心持が浮び出てゐる。「西洋に屈するな、日本魂を以て頑張れ」と呼びかけてゐる東湖の聲がそこに聞えるやうだ。

    

 當時は確かに思想國難の時代で、東湖らが曾て心からこれを僧んで異端視したのは、キリスト敎だった。その宣教師らが、いろいろの手段で、日本國民をキリスト教へ引入れようと努めているのを非常に憂へた。これに對抗してゆくのには、どうしても、日本の神道精神を高調し、その理論の到らぬところは、儒教の說によって補はうとしたのである。それが東湖らのいふ「神儒一致」であった。

 勿論、日本を中心とする以上、神道が本末で、儒敎は補助機關だから、本来、内外の辨は、最初から明かである。

 それから日本國民道徳の特色として、
 (一) 忠孝一致
 (二) 文武訓和
 (三) 學問・事業の一致などを
 眼目として擧げてゐる。

 更に幕末非常時における際、擧國一致の方を必耍として、「衆思を集め、群力を宣べ、以て國家無窮の恩に報ず」と云った。かうして東湖は、思想國難に打克たうとしたのである。それから東湖の『常陸帶』を見ると、烈公が藩政改革の始終、及びその意義の存するところが、よくわかる。由來、水戸は政治經濟思想の早く發達したところで、義公時代においても、夙に今日の社會政策の一端を實行した。
 即ち士民の生活のため、率先、水道を設けたり、救貧事業にも努めたりした。その後、藤田幽谷・小宮山楓軒・岡井蓮亭などが前後して出で、新しい政治經濟思想を展開した。  


〔参考〕


  


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